[]心が健康という件

.

こころと脳の、ともに健康な子を育てる。



すると、どうなるか。





会話が、こうなる。



〇〇したいなァ

〇〇になったら面白いなァ

〇〇は、すてき

〇〇は、いいねえ

〇〇にしてみるか

〇〇するのもいいねえ

〇〇というのもあるゾ

〇〇にならないかなあ

〇〇やってみるよ

〇〇やろうかな



つまり、楽しい事ばかり、浮かんでくる。



ストレスが無いから、病気しらずで、

心と頭の中の世界が豊かだから、さみしさが無い。

孤独感しらずで、嗜癖(中毒・耽溺・盲目)が要らない。

無いと困るということがなくなり、目を閉じているだけで満ちている。



やる気がとくにあるわけではないけど、知恵やアイデアが泉のように噴き出し、的確である。

実行できるかどうか、定かではないけど、常にそのための準備が進んでいく。



そして、やる気は無さそうに見える。たぶん。

「頑張って、目標達成するぞ!」なんて、言わないし。

周囲を説得して歩く、なんてしなさそうだし。



でも、いつの間にか、いろんな準備をしてる。

やる、やらないには、こだわらないけど、いつの間にか、やってる。







そういう子ばかりになったら。



たぶん、今ある職業のようなものは、すべて、無くなる。

一人の人間が、毎日、同じことばかりを繰り返す、というの、無くなる。

これまでのような、職業という感覚、それ自体が無くなる。



仕事という仕事はすべて、完全に、「倶楽部」という感じになるかもね。

同好会、というか。



image

[]「つらい思いをさせてはならない」

.

先日、ナショナルジオグラフィック社の資料をつらつらと眺め見ていたら、

1914年、大正3年の記事におもしろいのがあった。



記事を書いたのは、女性ジャーナリストのエライザ・シドモア。



220px-Eliza_Ruhamah_Scidmore


この人は、米国ワシントンへの桜の寄贈に一役買っている。



シドモアの記事で、目に留まったのが、これ。

明治天皇が冬のある寒い日の朝、地方を訪れた時のことだという。天候はあいにくに荒れ模様で吹雪に近い状態だったのに、子どもたちは必死に寒さに耐え、天皇を迎えたという。ところがその様子を見た明治天皇はいつになくご機嫌ななめで、あとでお付きの者たちに、国の宝である子どもたちに二度とあのようなつらい思いをさせてはならない、と強くおしかりがあったそうだ。」


子どもにつらい思いをさせてはならない。



これ、大人も当然、そうですわね。



大人にもつらい思いをさせてはならない。



考えてみりゃ、人間全体が、そう。



人間につらい思いをさせてはならない。









シドモアは、明治期より何度も日本を訪れ、たくさんの記事を本国アメリカへ送っている。



たくさんの記事と著作を残したが、人生の最後に彼女が書き残した最後の記事は、



1914年の「日本の子どもら」(Young Japan)と題するもの。



彼女の記事は、日本の政治や社会、経済に関することも多くあったが、それにおとらず、日本の風俗習慣、ことに子育てに関してのことが多かった。

そして、日本の子どもの写真を、たくさん撮っている。

「こんなに大事にされている子どもたちを見ているのは幸せ」


13


1928年11月3日、ジュネーブで死去。72歳没。

遺骨は遺族の意志で日本に送られ、埋葬された。

横浜外国人墓地墓所がある。

「わたしが世界中をめぐり、もっとも美しいと思うのは、日本の桜である。

桜をみながら近隣家族が花見をする習慣は、本当にこの世の天国かと思う」


帰国したシドモアは、花見の習慣を大統領の夫人に話したそうです。

どんなふうに話したのか、興味ありますね。

シドモアは、日本人たちが花を見ている姿を見て、その、いったいどこに興味を惹かれたのか。

なにを素晴らしいと思ったのか。



「つらい思い」をしないでいられる、ということの意味と、

その花見の光景とが、シドモアの頭の中で重なったのではなかろうか。









今でも、ワシントンでは桜まつりがあるようですね。



2017年の全米桜まつりは、3月20日から4月16日まで開催されたそうです。



ワシントン

[]あこがれの掃除道具

.

Hくんが、どうしても体育館のモップに興味があるようで、

休み時間に勝手に触って、運動委員会の高学年に怒られたそうである。



「先生、Hくんが、体育館のモップを勝手に使って怒られてた」







そこで、体育館で堂々とモップを使いたくなり、



「ようし、次の学級の時間に、みんなでモップがけをしよう」



とつぶやいたら、



「エー!!」



と、どうもノリがワルイ。





そこで、ただのモップがけではつまらないから、カーリングをやることにした。



体育館には、運のいいことに、バスケなどで使う円が、床板に描いてある。



2チームに分かれて、ボールを転がして、その円に収まればよい、ということにした。



ところが、ボールは転がりすぎる。



転がるけれども、ある程度進むと、停止してくれるもの。



「先生、コロコロのついた机は?」



そりゃ、机は動くけど、大きすぎるよねえ。



「あ、あんなのがある」



体育器具庫から見つけたのは、跳び箱やその他重いものを運ぶ、キャスターのついた板(台車?)だ。



ためしにそれだけを転がすと、案外と軽く、向うの壁にまで届いてしまう。





「重たくした方がいいな」



Tくんを、そこに乗せて、2人が肩と背中を押し、そーっと手を放すと・・・



見事に、まるい円の中におさまった!!



急きょ、5人チームをつくる。



1人を台に乗せ、2人が背中を押す。のこった2人は、モップでその進路を磨くことにした。



まるで、スポーツのカーリングのようだ。



「なんか、これ知ってる!!テレビで、見たことある!!」



がぜん、盛り上がってきた。







モップを授業中に、堂々と使えるので、Hくんも満足である。



しかし、氷の表面を磨くスウィーピング役が、モップを持って、必死に台車の進む前を磨くのは、滑稽な絵であった。



また、本当は、氷とちがって、床板をウォォォォ!と磨いたところで、とくに意味はないんだが・・・



でも、みんな、いちばん、その役をやりたがっていましたナ。

souji_yuka_mop

[]体育器具庫には入ってはいけない!

.

体育館での授業。

体育器具庫に、貼り紙がしてある。

「この中には入りません」


わたしが、

「この中には、入ってはいけないの?」

というと、子どもたちはみんな、うん、と頷く。



教室に戻ってきてから、再度、みんなに聞くと、



「入っちゃいけないんだよ。めっちゃ怒られるよ。高学年に!」



高学年の運動委員会の子たちが、休み時間にはボールを出したり、休み時間が終了する間際になると声をかけて、とくに低学年の子たちに教室へ帰るよう、うながしている。

委員会の仕事だから、高学年のお兄さんやお姉さんたちがしてくれているわけだ。



Rくんが、



「だめだよ、入ったら、叱られるよ」



と何度も繰り返す。



むかし、器具庫に入って遊ぼうと入ったら、めっちゃ叱られたらしい。



「去年のU先生も、だめだって言ってた」







わたしが、



「あの貼り紙がいけないんだなあ・・・。よし、あれを取っちゃおう!」



と提案すると、目をまるくして、



「ダメだよ!!」



の大合唱である。







「だって、先生は入りたいんだもの」



「え、先生はいいんだよ」



「あ、そう?でも、入っちゃいけないのでしょう」



「先生はいいんだよ、あれは子どもに言ってるんだし」




「なんで子どもだけダメなの?」



「えー」





ここで、ちょっと空白のできるのが、面白い。





ちょっと賢い子が、言い出す。



「子どもは怪我をするからだよ。マットがあるし、ほかにも金属の棒とかあるから」



みんな、そうだ、そうだ、と言う。



「なるほど、そうか。けがをするかもしれないんだね」



わたしは、黒板に

「この中には危険なものがあるので、ケガをしないように気をつけましょう」
と書く。



「あの貼り紙が、本当に言いたいのは、こういうことかなあ?」



「うん、まあ。そうかも」



それじゃ、そう書けばいいじゃない。

なんで、入ってはいけません、なのかしら。







すると、ある子が、



「ぼくたち(4年生)は、もう分かるからいいんだけど、1年生とか分からないからじゃない?」



なーるほど。

よく考えるなあ。

そこで、わたしが感じ入った様子で、



「なるほど。1年生の子は、そんなこと言われても、なにが危険かどうかも分からないからかもねー」



とつぶやくように言うと、みんなも同意する。







「じゃあさ、1年生は入ってはいけません、というのでいいのじゃないの?」



もう一度、わたしが意地悪く意見を追加すると、



「うん。そうかも。低学年はいけませんにしたらいい」



と同調する子も現れる。



「でも、それじゃあ、低学年だけに意地悪してるみたいになるよ」



難しいねえ。







では、一番いい貼り紙の仕方はなんだろうか。

わたしは、さきほど書いた文面の最後に追加した。



「〇この中には危険なものがあるので、ケガをしないように気をつけましょう。



〇低学年の子は、もしかしたら怪我をするかもしれないので、入らないようにしましょう」



こういうことね。





ところで、われわれ4年生は、どうする?



「入れるけど、それでもやっぱり、怪我をすることがあるかもしれないから、やっぱりまだ入らない方がいい」



じゃ、そうするか。







昨日、器具庫に内緒で入っていたSくんも、みんなと同じように、「入らない方がいい」 と真剣な顔で言うのが面白い。

IMG_0228

[]喋りすぎるか、寡黙すぎるか

.

自分がしゃべりすぎているか、



それとも、



寡黙すぎるか、どちらかに偏っていないかと、ふと思う。





だれかと話す。



その瞬間、自分は本当に、楽な状態、自然な状態でいるか。



つまり、なにも格好もつけないでいられて、そのまま、素のままで生きているのだろうか。



わたしは、世界中の人が素のままで生きられるのが、いちばん楽で、効率が良く、だれも苦しまないでいられるだろう、と思う。









喋りすぎるのは、なにか、うしろめたいことがあるとき、かもしれない。



また、なにかが怖いのかもしれない。



他人の何かを怖れているとき、人間はしゃべりすぎる。







一方で、寡黙になる時も、なにかうしろめたいことがあるとき、かもしれない。



自分の内部の、怒りをおさえようとして、寡黙になることがある。







日常的なところでは、自分が人と、どんな会話をしているか、



そのときの自分の状態が、どんなだろうか、といつも、気にする。



自分が楽で、さらに、相手も楽になるような、そんなふるまいができるようでありたい、と思う。



そう考え続けていると、



子どもにはこういうセリフで語り掛けなさい、とか



こんなセリフで、やる気を出させよう、とか



そういう情報は、要らんよなー・・・。







言葉は、外からやってくるのではなく、



耳を澄ませば、ちゃんと、自分の内側から、やってくる。



それは、ほぼ、正解となることが多い。(つまり、きちんと、伝わる)







IMG_0195

[]無抵抗と、不服従

.

人間の宿命とか、運命と言うものがあるのだろうか。



あるとしたら、それは生まれた時代のことではないだろうか。



生まれ落ちた場所や、自分をとりまく社会、家族、



赤ん坊は、それを自分で選ぶことができない。







そして、人は、その中で、



どうしても、



無抵抗



で生きていかざるを得ない。



しかし、無抵抗なのは見た目だけ。



人間だれでも意思はあるし、考えるという作用も働く。



そこで、一見、『無抵抗』にみえる子どもたちは、どうしても



服従



という選択をとろうとしていくのではないだろうか。







生まれた場所や時間、時代、環境というものについては、人間は無抵抗である。



しかし、意志としては、



服従



である。





つまり、自分の「選択」というものを、発揮しようとする。





われわれ教師は、この点を誤解するのかもしれない。



学校や教室、教師、学級、クラスメート、というものについては、



無抵抗に運命を受け入れる子どもたちが、



あたかもなにか、「学校に潜む、見えない何ものか」に、「服従」 していると思いがち。



しかし、どの子にも、心があり、考えがあり、その意志は、はっきりとある。



ちっとも、服従なんて、していない。







いつもいつも、自分を大切にするための、小さな選択を、



自分自身で、積み重ねようとしていくのが、子どもの本来の姿である。



教師は、そのことについて、何も困らないはず。



むしろ、それをバックアップし、サポートすることが、教師の生きがいだ。



運命には、だれも服従する人はいない。大人も、子どもも。



抵抗しないかわりに、服従もしない。



自分で考え、生きていく。



だれの意志も、決して、曲げられず、



自然に素直に、伸びていく。







人類に、服従無し。



当然だよネ。



どこまでも、自由に選択をしていく。



そのことが、人間の最高の楽しみ。



学校全体も、そのことが、わくわくするほど、タノシイことであるはず。



IMG_0187

[]漢字の話 「泊る」と「晒す」

.

布を川のながれに泳がせて、布を白くすることを、晒(さら)す、と言う。



だれでも、漢字をつくるとしたら、これはサンズイだろう、と思う。



だって、川の水で、布を白くするんだから。



サンズイに、白、とするのではなかろうか。



ところが、サンズイに白、だと、「泊」になる。







逆に、宿をかりて泊まる、という漢字をつくるときは、どうだろう。



そろそろ日が西にかたむいてきて、どこかに寝泊まりできる場所はないかとさがす。



このままだと、すぐに暗くなってしまう。宿を探さねば。



日が、西に傾く。



「晒」と、書きたくなる。



ところが、これは、晒す(さらす)、という字でしょう。





つまり、「泊」と「晒」は、どこかで入れ替わってしまった字、ということになる。











4年生は、漢字辞典を勉強する。



必然的に、わたしは漢字の話ばかりする。



算数のときも、「算」という字の成り立ちを話す。



「先生、算数なのに、国語みたいになっちゃったね」









先日は、「女」ヘン、というものがあることを伝えたら、Sくんがやっぱり気になったらしく、



「先生、男ヘンは?」



ときく。



「残念。ありません」



というと、



「女だけあって、ずるい」



クラスの男子が、全員で憤慨するような空気になる。



「男がなくって、女だけあるなんて」







そこで仕方なく、常用外になるから学校じゃ習わないけど、と断って、



「甥(おい)」という字を教える。



それだけ?



うーん。







わたしが漢字をダシにして、世間のさまざまを語ると、



刺激された子どもたちも、自分の勝手な考えを話すことがあります。







ふつうの授業展開からすると、はっきりいって、無駄話です。



「余計なことをしゃべっていないで、ハイ!教科書ひらいて!」



という場面ですね。







ところが、思いのほか、そういうことをしゃべっているときに、



子どもの素の顔がみえてくることがある。



友達どうしでも、そのようで、



「ふーん!」



「へえー!」



と、お互いに驚いたり、面白い!と笑いあったりする。







こういうこと、多いヨ。



お互いの素の顔をわかりあっていると、



クラスの過ごしやすさなんかは、確実にかわってくるように思うね。



P1190364