[]「知識」と「意見」を分ける

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「知識」という言葉に、絶対的な肯定感をもつのが、多くの日本人だろうと思う。



知識が武器であり、知識が生活を便利にし、知識が人間としての深みを増してくれる。



人生は、知識で豊かになるもの。



これは、そうである、と私も思う。



「知ること」が、人生の最大の楽しみである、とさえ、思う。



ところが、「知識」というものは、カチンコチンに凍っている。

その、凍ったものである、というところが、「知識の」唯一の欠点である。



とくに、



「こうするとうまくいく」



と書かれた、ノウハウを紹介したもの。



これは、わたしから見れば、完全に凍ってしまっているイメージがある。



「うまく」 の中身が、その著者にとっては「うまく」かもしれないが、果たしてその良さが、自分に通用するかというと、案外と通用しない場合もあるからだ。



「あの店のラーメンは、めっちゃうまい!」



と聞いて、その店のラーメンを食べてみると、果たしてあまり、うまくない。



そんなことは、みなさん、星の数ほど経験しているでしょう?





ネットショッピングのクチコミがにぎわっていて、



「めっちゃいい!!買って良かった!」



と、仮に千人の人が書いていても、やはりその中の数十人ほどは、「私には合わなかった」と書くのが常である。



これから買おうとしている「買い手」にとっては、自分自身が、「いいね!」とつぶやく千人のうちの一人になるのか、もしかするとそこから漏れた、数十人のタイプであるのか、さっぱり判断がつかないのである。



だとすると、口コミ、というものは、読んで参考になるかもしれないが、読む前につかなかった決心は、やはり読んだ後も「つかないもの」なのだろう。



つまり、「決定打にはならない」というのが、クチコミの本来性というか、もって生まれた宿命なのでありましょう。





だとすると、買い物をする前には、やはり、10回の買い物のうち10回とも、



「買って自分自身に聞いてみるまで、良かったかどうか、分からない」



というのが、最後の最後、本当のところなのであります。



どれだけクチコミを見ても・・・。



たとえ1万人のクチコミを見ても、星の数を星の数ほど参考にしても、やはり最後は、賭け、なのであります。





・・・と、ここまで考えてみると、自分の人生をいちばん、後悔せずに送るのは、自分の第六感を信じて生きる方法、それ以外にない、のではないだろうか、と思うようになった。





同様に、結婚は早婚がトク、晩婚がトク、子育てのコツ、彼氏にするならこんな彼、とか・・・



人生の多くの事象について語るものが氾濫していて、



「これがトク!」とか、「このスタイルがかしこい!」とか「この生き方がステキ!」だの、



ありとあらゆる情報が錯そうしている。



こんなに情報がたくさんあるんだもの。



ノイローゼになるのも、分かるね。



コメント・ノイローゼ。


かつて、洗剤を買うのに、1日かかった、という職場の先輩がいた。



あれこれとネットを調べていると、さまざまな商品があり、コメントやクチコミがあふれている。



「よし、一番よいのを選んでやろう」



と意気込んで、パソコンの前でビスケットを食いながら画面をにらんでいたら、



あれもいい、これもいい、いや、あれはダメ、これもダメ、いや、やっぱりよい、いいや、よくない、いやいや・・・



結局、コメントを信じて読むだけで、アタマがふらふらになり、いいのか悪いのか、ちっとも分からず、片頭痛がおきて、倒れるようにベッドに横になった、という。











・・・・・・



ああ、そうかも・・・。



〇〇がいい!



というの、これは「知識」じゃあ、なかったんだな。



今、気が付いた。



〇〇がいい!というの、これは「知識」じゃあなく、ただの、「意見」だったんだ。



トホホ。



のけぞる