[]【6年・国語光村】海の命の授業

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個人的に参加している、元校長先生の私的勉強会で、「海の命」を学んだ。

わたしの勤務する、愛知県岡崎市の教科書とはちがって、「海の命」は、光村図書である。

別の市に赴任されている方が、授業の指導案を持ってこられて、それを検討することになった。



【導入】

太一が瀬にもぐりつづけた理由は何か。

なぜ太一は瀬の主を探していたのか。

 (復讐やかたき討ちをしたい一心で追い求めていた?)




子どもたちから、「敵討ち」の言葉が出るが、また別の子からは、

「べつにクエが悪いのじゃない。自分の命をとろうとした相手から自分の身を守っただけ」

という意見も出て、すでにそこから討論の気分。



太一は父を殺された復讐のためにクエを追い求めたのか


これは、父がクエと戦って死んでいるのだから、「かたきうち」という言葉でかまわない、という子がほとんどである。

しかし、クエをそこまで恨んでいるだろうか?という点で、釈然としない子もいる。

「ただ、戦おう、という前に、その魚を見てみたい、という気持ちが強いのではないか」



父とは何か、父はどうその魚と向き合ったのか、父はどんな気分でその魚を見たのだろうか、という謎を解明したい、という気持ちがあったのではないだろうか。

だとすると、敵討ち、という言葉とはすこしニュアンスが異なってくる。



として見直してみると、父は殺された、という文はどこにもないことに改めて気づく。

父を破った魚、というふうにしか書いていない。

また、瀬の主を、「まぼろし」と表現したり、主をとらえることが「一人前の漁師になるために必要」とされていることなどから、どうやら、「敵討ち」というものとは、またちがう心持ちがあるのではないか、と見えてくる。



この問いによって、子どもたちは、



「どうやら、深く読もうとして言葉を注意してみていくと、新たな読み方がありそうだな」



という感想をもつ。



太一は主をずっと追い求めてきたのだから、目の前のクエを殺すべきだったか。
次に用意された、この発問も、多くの子どもが疑問に思う点である。

なぜ、太一はようやく見つけたクエを殺さなかったのだろうか?



前述の、市外から来られたS先生は、

「教室のほとんどの子が、読んだあとの疑問点としてこれをあげていました」

と言っていた。



わたしもその場で本文を何度も読ませてもらったが、その場ではすぐに解釈できなかった。

その先生が人数分コピーしてきていたのをくれて、読む時間も与えられたが、その短い時間では、わたしにも判然としなかった。じっくりと考えることができたのは、この資料を持ち帰ってからだ。



はたして、殺すべきだったか。

海の命2


【発問】

この作品の山場では、どんな太一が描かれているか。

(最後を〇〇する太一、〜な太一、と体言止めにしてノートに書かせる)




主に出会って興奮する太一

主を殺すべきか迷う太一

殺さないと決める太一

一人前の漁師になろうとする太一



「クエを殺すかどうか悩んだ結果、太一は殺しませんでした。しかし、ずっと追い求めてきて、ようやく出会うわけですね。ではそこで、やはり殺すべきだ、という考えもあるかと思う。みなさんはどう思いますか」



賛成か、反対か。

意見を決めて、討論させる。



多くの子は、「殺すべきだとは思わない」と反応する。

しかし、それを理由をつけてきちんと自分なりの説明にしよう、ということになると、太一の心理がどのように描かれているか、行動の描写はどうなっているかなど、かなり詳細に読み込まねばならない。記述をもとに、自分なりの理由を説明できることが重要である。



「やがて、太一は村のむすめとけっこんし、子どもを四人育てた。男と女を二人ずつで、みんな元気でやさしい子どもたちだった。母は、おだやかで満ち足りた、美しいおばあさんになった」

この段落の説明は、すべて必要なのだろうか。




【発問】

主と出会うことによって変わることになった太一のその後ですが、太一が結婚したとか、子どもを四人育てたとか、このあたりの説明って長くないですか?この文って、必要でしょうか?




太一が結婚した情報は必要?

太一が子どもを育てた情報は必要?

子どもが男2人と女2人だ、という情報も必要?

母が美しいおばあさんになった、という箇所、これも必要?



これらは、みんな必要だ、というふうに子どもたちは言う。

しかし、これもまた、なぜ必要なんだろうか、なぜ立松和平がこのように記述したのか、というところになると、一人ひとりが深く前後の文脈を比較して読んでいかねばならない。

海の命