[]【孫子の兵法】高学年の先生は楽しい授業をジャンジャンとやるべき

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戦争の天才、孫子は、こう言ったらしい。

「戦争の原則としては、味方が十倍であれば敵軍を包囲し、五倍であれば敵軍を攻撃し、倍であれば敵軍を分裂させ、等しければ戦い、少なければ退却し、力が及ばなければ隠れる。」
これは非常に面白い。

人間関係も同じようなことが言えると思う。



孫子


市内の各小学校から集まって、市民ホールで合唱コンクールをやったことがある。



お互いに合唱を聞き合うのだから、さぞかしみんなマナーを守るかと思うだろうが、そうではない。

ある学校のある生徒は、まったく合唱を聞く気などなく、おしゃべりをしながら時々雄叫びのような声をあげたり、自分だけ拍手を延々と続けたりし、その学校の先生からたびたび注意を受けているようだったが、まったく態度を改めるそぶりがない。こんなところになんで俺は居なくてはならないのだ、という感じの不満をありありと顔にだし、他校のステージ発表の最中も、何かの拍子にゲラゲラ笑ってばかりいた。



見ると、担任かと思われる先生が何度も注意に立っているようであったが、子どもの方はもうほとんど聞く気が無い。



つまり、その子にとっては担任など、どうでもよい。



「この人の言うことは、聞かない」



と決めてしまっているのである。



居直り、とでもいうのであろうか。



居直ってしまった子を、どうにかできる大人は、おそらくいないと思う。



もはや、その子と関係を結べている大人が、周囲には一人もいないのであろう。





これは、とても難しい生徒指導である。



こういう子は、最初から、追いつめてはいけないのである。









孫子でいえば、最初、味方が十倍であるときに、相手を攻撃してはいけないのである。



包囲するだけで、十分。



戦うことが目的、ではないのだ。



孫子曰わく、

 凡そ用兵の法は、国を全うするを上と為し、国を破るはこれに次ぐ」
 とある。



これは、およそ軍事力を用いる原則としては、敵国を保全したまま勝つのが最上の策で、敵国を撃破して勝つのは次善の策である、という意味だ。



つまり、わかりやすくいえば、戦いに勝つというのは、相手をやっつけるのではない、ということ。



相手が自分の話を聞き入れるようにさえすればよいのであって、手段を目的と取り違えるからか、頭の先から攻撃しなければならない、と思い込んでいる。それは間違っているのである。



教師は、どんな子どもに対しても、決して居直られないよう、追いつめないようにしなければ。



どんな子も、落ち着いて話を聞いてほしくなるタイミングがあるのだから。



冷静に、自分のことを考えたくなるときがある。



そうした時間をつくれるように、タイミングをつくれるように、環境をつくれるように、話のきっかけをつくれるように、徐々に周囲から、相手に迫っていくのである。(表現が変かな?)









3、4年生の時は、とても静かでおとなしかった学年が、5,6年生になって爆発した、ということがある。



それは、3,4年生のときに厳しかった先生たちが、ガチガチに締め上げていたのを、5,6年生の先生たちがそのまま引き受けたからであります。



人間、厳しくされてキュッとなって、言いたいことも言わずに黙っていたら、いつかそれを出したくなるもの。



2年間も言いたいことが言えなかったら、賢い高学年になれば理屈もたつようになるし、チャンスがあればどこかから出てきますよ、それはネ・・・。



3,4年生の時に静かにしていたのは、決して納得していたわけではなく、抑圧されていただけ。



「自分を取り戻そう」とすれば、正直に自分の心の声を出していきたくなるもの。



5,6年生の先生ともなれば、そのくらいのことを予期しておくのが当然で、楽しいことをジャンジャンとやるのがよい。



3,4年生の授業がまるでお通夜のように暗く寂しいものであったのなら、授業のイメージをガツン、と変えてしまう。



そのくらいやらないと、リハビリできないし、リハビリができないと、結局なにかたまった鬱憤のような物、トラウマのようなものから逃げるだけで、残りの小学校生活が過ぎてしまいます。



本来の楽しさを味わうには、リハビリが要るのだとしたら、どんどんと人間らしい息をさせて、楽しい授業をたーーくさん、味わって、楽しいクラスの行事をたーーくさんやって、人間関係をつくって、



心から安心できる人間関係を、大人も子どもも、教師も児童も、みんなが確認しあうことから。



人間どうしが、心から「安心できる」っていうことが、何をするにしても、何をおいても、最初に来る。

いちばんの大元だ。



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