[]「自主的に動きなさい!」の意味

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学校現場では、子どもたちが自主的に活動することを何よりも願う。



「自主的に動けるように」



というのを、どの先生も考えているのだろうと思う。



この自主性、とはいったい何なのか。





わたしはいわゆる「積木崩し」の時代に子どもをやっていたので、いわゆるリーゼント頭やバイクに乗った不良が身近にいた。



朝、学校へ来ると、大量のチョークがばらまかれていたことがある。

靴をはきかえようと思っても、できない。

なぜなら、玄関はすでに、すべて水浸しにされていたからだ。

水に溶けたチョークで辺りは覆い尽くされ、昇降口はすべてドロドロの原色が渦巻くカオスであった。



またある日は、お昼の放送で、ヤクザの息子と噂されていたGくんが



「☆@ΘΓΠ◇◎!!」



とても聞くも憚られるようなことをマイクで放送し、血相を変えて担任が廊下をすっ飛んで行くのを見た。



不良くんたちはそれなりに自分自身で何かを考えているふう、であったが、それらは



「自主的な活動」



とは呼ばれない。



学校で先生たちに気に入られる「自主的な活動」とは、チョークで昇降口に芸術アートを描くことではないらしい。



つまり、学校でいう「自主性」とは、



「教師の望むことを察して、指示がとんでくるよりも先に動く」




という、つまりは行動のこと、なのでありましょう。





生徒がやりたくてもやりたくなくても、そんな生徒の気持ちや心情には、関係なし。



ともかく、やりたくなくても進んでやりなさい、ということであるから、まあ



「自主性」



とは言い過ぎで、この場合は



「自己規制」




と呼んだ方が、言葉の上では適正でしょう。





ところで、前述の不良たちのように、昇降口にアート作品を展示しているというのは、「学校生活かくあるべし」という、先生たちの意図する範疇を超えてしまう。



つまり、先生たちは、本心から、本当の意味で、「自主的に動け」とは言ってないのであります。





けれども、人生、という長いスパンと、その重要性を考えてみると、自分を何よりも大切に考え、行動していこうとする「自主性」は、決定的に大事なことです。



さらには、そのために必要な、「自分の頭で考える」のうちの、とくに「考える」という点が、もっとも重要であって不可欠な要素だと見えてきます。



子どもたちに必要なのは、その「深く、ふかーく、自分のことを考えてみる」という体験そのものです。





もし、「考えないよう」にするような教育プログラムが、まことしやかに学校現場に登場し、導入され、あたかももう決まりきったように押し付けられてしまったとしたら、それはたいへん残念な事態です。



「道徳」が教科となり、「英語」が教科となり、10年ほど前にはまだ健在であった「総合的な学習の時間」はほとんどブーム流行と同じように廃れてしまい、教科書は分厚くなり、教える分量は増加しっぱなしの今の流れが、なんだか心配です。大丈夫なんでしょうか。



記憶だけでない、「考える」が楽しい、という授業。



北欧のある国のように、全世界中でトップ(第一位)の学力がありながら、宿題もペーパーテストもない、というのと比べると、日本はまだまだ、「考える」楽しみを、本当には実現できていないのかな、と思います。



せめてその実現のため、地道に



考える授業



に取り組んでいきたいものです。



雪の細道