相模原の殺傷事件

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「なんと過剰なことか」

と思った。



津久井で起きた、戦後最大級の殺人事件のことである。

相模原市緑区の障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が死亡し、職員2人を含む26人がけがをした事件)



植松容疑者が、「ほめられる」ことを期待していた、というマスコミの報道を見た。



(以下、マスコミ情報の引用)

 「障害者なんて、生きる意味なくないですか」。やまゆり園の関係者は、植松容疑者から話しかけられてぞっとした。職員にも「障害者なんて死んだ方がよくないっすか」と笑みを浮かべながら話しかけていたという。



「重複障害者に対する命のあり方は未(いま)だに答えが見つかっていない」

「障害者を殺すことは不幸を最大まで抑えることができます」。




植松容疑者の書いた衆院議長あての手紙の文面には、このような主張がA4用紙3枚にわたってつづられていた。なかには、今回の殺人に関しての報酬を期待するような文もあったという。



 園の関係者によると、植松容疑者は今年2月ごろ、園周辺の家庭に、「障害者なんて生きていても無駄だ」などと書いた文書をまいた。県によると、園の利用者にも直接、人権侵害のような言葉を吐いたという。園は「大変危険な発言だ」と注意したが、植松容疑者は「自分は間違っていない」と激しく主張した。


どうして、「ようし俺が」と思ったのか。

このことで誉められる、と思ったのはなぜか。

自分は間違っていない、と激しく主張する彼の心には、どんな思いが湧いていたのだろう。



なんらかの思想に染まり、その思想の価値に過剰に同調することを求められていたに違いない。

また、彼はその実現に向けて、自己を強迫するようにして、行動に至ってしまったのだ。



この過剰なまでの依存、過剰な思い込み。

こうしなければならない、とする思想に耽溺していく背景に、いったい何がひそんでいるのか。



この「過剰」という病理は、今の世の中を如実に示している。





彼の発言で、気になることがある。



「・・・決断をする・・・世界をより良い方向に・・・全人類の為に・・・」



という文句だ。



いったい、何を決断し、解決したかったのだろう。

そして、センセーショナルな行動を考えた。

けっして、実現してはいけない、非人道的な方法を。







「自分はなにがしかの意味ある存在であり、他の人とはちがった価値をもつ個性だ」



そう思っていたいのが、われわれだ。



植松容疑者は、それを追い求めることを、過剰に自身に課した。







植松容疑者が、



「無駄なエネルギーを使わないで生きる」



ということの心地よさを、知っていたら、この事件はなかっただろう。



生きるは楽しい。

太陽を見るは楽しい。

散歩は楽しい。

人と話すは楽しい。



そういう実感がないがゆえに、さらなる迷路に迷い込み、自身を責め続けたのではないだろうか。



彼は、

「誰でもいい者である自分」

「なにがしかの人物として目立つことのできない自分」


そういう自分自身のことが許せなかった。



「なにものかにならなければ」

ということを、自身に課していたから、

「なにものかになれない自分」を責め続けたのだろう。



この、「なにものかでいなければ」という強迫。

「なにものかであるべき」という嗜癖

これを、『superior addiction /スピアリア・アディクション』という。



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