[]せっかちに日常を超えようとするな

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相模原市津久井で起きた、大量殺人事件。

このことに、とにかく考えさせられている。

新聞やテレビの報道も、ほんの一部しか見ていないけれど、自分が聞いて分かったことからだけでも、いろんなことを考えた。





センセーショナルな解決法、について



容疑者は、よく分からないけど、<何か>を解決したかったみたい。

(※注・殺人で何かが解決できるとは理解不能だが、彼の頭の中はそうなっていたらしい)

さらに、そのやり方が、人道的だった。

で、容疑者は、こんな派手でセンセーショナルな解決法が自慢だったみたい。



この感覚って、なんだろうか????









たしかに我々も容疑者と同じように、何かを解決しようと思って日々を過ごしている。

そして、心のどこか奥で、



「センセーショナルな解決法っていいな」



と思っていやしないか。



このことに気付いて、ちょっと、自分で用心しながら、考えてみようとしている。







そもそも、だれだって、

「100%理解したい」

「よくわかりたい」

「完全に説明できるようになりたい」


と、常日頃、思うことはよくあるのではないか。



その結果、たぶん、突き詰めて考えることができるだろうし、

疑問をきちんときれいに(完全に)整理できるだろう。

また、だれかにきちんと説明することだって、できるにちがいない。



そう思って、日々を生きている。



なぜ、そう思っているかというと、

おそらく、そのように対象を完全理解し、課題解決することで、自分自身の主体性をきちんと実感できるから、なのではないだろうか。



対象を理解し、きちんととるべき手段を選択し、自己実現のために行動する。

あるいは、その行動をくりかえすなかで、自己実現的な感覚を感受できる。









ところが、

「なんでも分かろう、結果を生み出そう」

と、せっかちに日常を超えようとすることで、その結果、主体性を十分にとりもどし、自分の人生をとりもどせたかというと・・・



残念なことに、

意に反して、



ちっとも、主体性を感じられないまま、われわれは生きている。

それが実態だ。









だから、容疑者は、自分をどんどんと追い込むしかなかったのではないだろうか。

容疑者はむしろ、「理解して解決しようと思わずに自由になる」べきだった。

解決できる自分になろうと思わずにいながら主体性を取り戻そう」とするべきだったのだ。





これは、たいへん難しい問題である。

これまでの社会が提供してきたシナリオとは異なる自己物語り・のための言葉が必要だからだ。





われわれの社会は、相模原殺傷事件の植松容疑者を擁している。

彼だけがいびつであったのではない。

そのような彼を生み出す社会を、わたしたちがつくっているのである。



そのわたしたちの社会が、取り組むのは、むしろ

「わかろう」「整理しよう」「賢く選択しよう」そして「自己実現しよう」という道筋自体を、手放すことかも。





こうあるべき、というものを手放すのは、そんなに簡単ではない。

その証拠に、右も左も、どの立場も、

だれもがみんな、「こうあるべき」を、手放そうとはしない。





そりゃそうだ。

「こうあるべきもの」

と固く、自身の中に打ち固めてきたものを手放すなんて。

自分の生きていく主体性までを手放してしまうようで、そんなおそろしいことは、到底できまい。







ところが、その主体性を放してみると、肝心の主体性が手に入る。

ふと手元を見ると、放したはずの主体性が、きちんとある、のである。

今まで握って離そうとしなかった主体性は、幻想だったのだ。

つまり、『幻想』を、幻想としてきちんと把握すると、ちゃんとホンモノが見えるのである。



これは、「個性の問題」と似ている。

個性を探し、分析し、見極めて、手に入れようとすると必ずそれは誰かのマネになってしまっている。

しかし、そんな個性は幻想だった、と手放してしまえば、いつの間にか、きちんと個性が表出される自分になっている。

つまり、今まで追い求めてきた『個性』は、幻想だった、ということ。





お金を使うと、「ああ、自分らしさを発揮したなあ」という感覚のある人。

国家を論じ、政策を論じ、ナショナリズムを鼓舞するときに「権力をふるうことの快感」を感じる人。

「自分らしさを実現しよう、個性を発揮しよう、他の誰でもない自分になろう」、ということに価値を感じて、「なにがしかの人物として立つ」ことが目標になっている人。



それは、幻想の一種かもしれない。



幻想を捨て去ってみると、

「一時的な派手さ、ドラマ、息をもつかせぬ物語、永遠の夢」・・・は、無くなる。



しかし、逆に、



飽きずに繰り返せること、何度でもやりたくなること、

人から褒められなくても、相手にされなくても、やっぱり自分はこれを続けたいと心底思えること、

くりかえし、くりかえし、やりたくなること、

飽きずに、ずっとやっていたくなること、



と、出会える可能性が増える。









それは、関わる全ての人を、くたびれさせず、疲れさせず、飽きさせない。



センセーショナルな解決を欲する欲望とは、まったく異種のもの、である。

これを、『主体性のあるマンネリズム』という。





緑の実