[]どんな子もかわいいは、嘘か

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反響があったので、びっくり。



新間先生宛にメールが届いて、どんな子もかわいい、というのは楽しいでしょうね、とあった。



それはそうだよナ、とゆっくり読んでいったら、そのあと、



「しかし、それは現状で新間先生が良い子どもに恵まれているからで、地球上のすべての子がかわいいということはあり得ないですよね」



と、まあ正直なコメントをいただいた。









これは話をしていくと、じゃあ、人を殺した奴についてはどうなんだ、そんな奴でもかわいいのか、と追及されてしまうことがあるので、なかなかの話であります。

むずかしいですよねえ・・・







一つは、



子どもがかわいい、と思わないとダメ



ということではない、ということ。







「そう思わないと、教師失格ですか?」



いいえ、そういうことではないと思います。



ただし、子どもがかわいいと思えてくるのは、とても自然な感情のように思いますね。

だから、思おうとして思うことでもないような・・・。

自然に思えてくるのではないか、と。







わたしは、自分の子を殺された母親が、死刑囚の男に会って話をするところをなにか、米国かどこかのドキュメンタリーで見たことがある。



当然、短い面接の間に、



相手を吐き捨てるように罵(ののし)って、唾(つば)をはきかけて、歯をむき出していく親もいるんだけど・・・。



しかし、ドキュメンタリーに出てきたその母親は、同じような立場であるにも関わらず、



泣きながら、



「わたしはあなた(犯人)が息子だったらよかったと思う」



と言って、死刑を取りやめるように運動するのであった。



この意味はとてつもなく、深い。

よかった、というのは、それがラッキー(幸運)だ、という意味ではない。

そうするほかない、息子のようにかわいがりたい、それしかない、というのだ。



愛するほか、ない。



これはいったい、なんなのでしょうか。





どんな子も、かわいい。


これは、なんなのでしょう?







メールをくださった方は、おそらく若い先生なのだと思うけど、真面目に考えているからこそ、くださったと思う。

かわいい、という言葉の感覚と、今の自分のもつ感覚とが、ちがうように思えて来ているんだろう。

どんな子でもかわいい、というテーマが、相当に重く、のっぴきならないものに感じるのであろう。

そして、はやく、その心境にたどりつこうとされているのだと思う。



かわいい、という言葉も感覚も、今の若い人と、年をある程度とった自分とで、ちがったものがあるやもしれぬ。ファッションやセンスでかわいい、という意味でもないし・・・。書くまでもない、当然なことだろうけど。







かわいいとは、



その子の幸福を願う、ということかな。





だとしたら、幸福を願わない子はいない。





みっふぃー