[]授業はなるたけ進まない方が良い
.
というパラドックスが、ある。
つまり、授業がするする進んでしまうのは、大人⇒子ども という一方通行の講義になってしまっている場合があるからだ。
肝心なのは、子どもたちの思考。
考える、ということ。
思考を、うながす。
さまざまなことをつきあわせて、調べながら、確かめながら、考えていく、という熟考の体験こそが、今、PISAをはじめとした国際的な学力体系の中で、必要とされているのだ。
このことに今さら異を唱える時代遅れの教育者は、いないと思われる。
A、だからBだ。という、丸暗記型の定量学力は、すでに21世紀の今日、重要視されていないのだ。
だれだって調べたらわかることを、わざわざ暗記することに力を注ぐのではない。
今必要なのは、迂闊さのない思考力、柔軟な訂正能力、そして公正な判断力、である。
つまり、自ら問いを見つけ、課題の解決に取り組む積極的な姿勢を育もう、というのが、今の文科省のねがう教育なのです。
さまざまなデータがないのか、そのデータは間違っていないのか、データの矛盾はないか、データがそうだからといって、一つの結論が出せるのか。とりあえず考えられるアプローチはなにか、別角度からのさらに効果的なアプローチはないのか、など、柔軟に思考できる人間の育成が、文科省の期待する人間像、というわけ。
すると、文科省的には、
「授業を進めたい」
のだけれど、
「するするとスムーズに進むのはよくない」
ということになる。
あっちへぶつかり、こっちへぶつかり、クラス中の全員が、ああでもない、こうでもない、とあれこれと考えていき、今のところ、こうかな、と考えていく体験こそが大事なのだから、
「スムーズさよりも、あっちこっちのぶつかり具合こそが大事」
ということになろう。
つまり、
個々の授業は渋滞して遅々として進まない方が良い
だけど、思考力が鍛えられるゆえ、子どもたちが
次から次へとあらゆる課題に意欲的になる結果、
全体には、がんがんと進んでいけるのが良い
のであります。
ただ一点。
この教育は、親との折り合いをどこかでつけなくてはいけない、という宿命を背負う。
親は、
なんでもかんでも、スルスルと、そうめんを流し込むように覚えてほしい
と思っている場合があるからね。
ま、「スピード感があり」「威勢が良く」「見かけがスマート」というのは、なんとなしに、怪しいかもしれない、ということですヨ・・・。