[]「よいことだから」では動かない子を

.

そもそも、人間と言うのは、どの程度、やる気に満ち溢れた存在なのだろうか。



子どもを見ていると、どんどん遊ぶ。

なんでも試して、振ってみたり、歩いてみたり、のぞいてみたり、たたいてみたり、噛んでみたり、いろいろする。



特に、幼児期の子どもはそうで、夢中になっている姿は本来の好奇心に満ち溢れたものだろう、という気がする。



ところが人間、そのまま成長していくことは、むずかしい。

なぜなら、小学校に入ると、



「この間、楽しくなかったから、もうやらない」



とか、



「あいつとはやりたくない」



とか、



いろいろと、思うこと、が出てくるからである。



さらに言うと、義務感、というものが邪魔をする。

こうしなけばいけない、という「きまり」や「さだめ」というものが頭の中にいっぱい増えてくるから、そうしたもので動く。

「こうした方がよい」という道徳感も多いよね。



するとどうなるか?

ある、重要な変化が生じるのだ。



つまり、



「つまらないなあ」




と、思うものなのである。



やらされてやるのは、なぜか、つまらない、と思うものなのだ。



ちょっと待てよ、なにか、おかしいぞ、と、神経の深いところで、何かが教えてくれているのかもしれない。

幼児期に体験してきた、あの、純粋な、いつまでやっていても飽きなかった、ごく集中していた、いわば「ゾーン」に入ったような、素の気持ち、素の楽しさはすっかり姿をひそめてしまい、



なんだか、けだるいような、はやくやめたいような、妙な気持ちになるのである。



だれかにほめてもらったり、評価してもらったりすると、また猶更である。

ほめてもらえる、と分かると頑張るが、それがないと、



「なんだか、つまらない」



のである。



そして、ざんねんなことにほとんどの場合、大人はある種の教育、つまり

「つまらない」とか「めんどう」と思うことを否定される教育を受けてきました。



だから、こじれていくと思うネ。



学校に蔓延する、



「よいこと、必要なことだからやる」



というの、これを吹っ切ることができたら、かなり雰囲気が変わるだろうなあ。

子どもも大人も、やることも、めざすことも、何に価値をおくかも、変わっていくだろう。



「やるのがよい」⇒だからやる

 ↑ この方程式で動かない、というの。



想像しにくいから誰も想像しないけど、想像してみる力のある人が一人でも二人でも、まずは想像していくことだろうか。



目的は子ども6