[]「やられたら、やり返せ」と教える件

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「やられたら、やり返せ」と教えるかどうか。



おうちの人が、子どもにそう教えている場合、なかなか激しいバトルが繰り広げられます。



こぶしでパンチ。



両者が傷ついて終わりますが、かなしいですネ。



教師や大人はこういうとき、大体、



「どっちが先に手を出したの!?」



と聞くけど、これは意味ない。



なぜなら、手を出す前に、すでに気持ちの上でのバトルがある場合がある。

なんとなく、ウマが合わない感じを持っていて、「好きじゃない」感をもってる場合。

あとはきっかけがあれば・・・という状態で何日か過ごしているから、

「にらんだ」とか「じゃました」とかで、バトルが起きる。

苦労して苦労して、担任が詳細を聞き取って調査しても、どちらが悪いとはなかなか決められないから、始末が悪い。





こぶしで解決。



↑ あまり賢い方法ではない。

でも、仕方ない、と考える人もいる。



「抵抗しないと、いいようにやられるから」



というのがその理由で、仕方ないし、やりたかないけど、抵抗しておいた方がいい、という。



「暴力はいけないし、負の連鎖を生むから、別の方法でやり返すのがいい」



という人もいる。







どっちにしても、「やられた、やってやる、やり返してパワーを見せつける」。

そういう発想と方法に頼っている。

それしか知らないし、そもそも本当の意味で解決した経験がないからだ。







過去、「やられたらやり返せ」ということを教えています、という親御さんに何人も会った。

保護者懇談で、堂々と意見を言って下さる方もいる。

しかし、私はそこに、「辛さ」を感じ取って、何とも言えない気持ちになる。

その方を、そういう状況に追い込んだありとあらゆる「迂闊さ」に対して。



あるとき、おうちの方が、

「わたしもいじめられたときがあって、なんとか見返してやろうと思って頑張れた」

ということを言うときがあった。



だから、いじめは〇〇だ、いじめられた経験は〇〇だ、という論議に私は興味が無い。

また、抵抗するのが正義だ、良いのだ、という論議にも、興味が無い。



そうではなくて、



いじめ、という言葉以前のことに、興味がわく。

抵抗、という言葉以前のことに、興味がわく。



「やられたら」という言葉以前のことに、興味がわく。

「やられた」という前提と、その意味が生じる前のことに興味がわく。





ところが、簡単に腹が立って、自分の気分を害し、「あいつに気分を害された」というセリフが当然になっている今の世の中の風潮の中では、なかなか考えの焦点が絞れない。



そこをえぐりなおすような、哲学が要るんだろうと思う。

自分と相手、という閉じた関係の「問題解決」ではなくってね。

知恵をつかう、哲学が。





自分と相手。

どこがちがうのか。

なにが同じなのか。





【教室の哲学を実践するために大切な5項目】

?なぐりかかった子に、自分について語らせるのに最適な場としての教室という空間。

?それも、クラスメート全員が、同時に自分自身について考えているという思考の流れがあること。

?あるいは、自分について考えることが、楽しい、という暗黙の了解

?自分を成長させるのは、自分だという前提

?クラス全員が考えていくことで、自分もクラスも良くなる、という実感





やはり、ここで大事になってくるのは、哲学ですぜ。



聖徳太子