[]わたしが見ることのできるもの。

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トカゲを飼い始めたせいで、この休みはつくづく、虫づくしでありました。



エサとなる、生きたハエやクモを見つけるのが面白い。



それ以外にも、虫のことで一日が暮れる。



朝、散歩に出かけると、もうそこらじゅうに、モンシロ、モンキはもちろん、シジミチョウもいる、セセリチョウミスジチョウ、カラスアゲハ、あらゆる蝶がすでに春の活動を開始していた。



わたしがムシに関心を持ち始めたとたん、これらの虫たちが、一斉に岡崎の山の中に現れたわけではない。以前からずっといたのです。





・・・でも、わたしにはそう思えない。



これまで、こんなにも、蝶は岡崎の市街地を飛んでいたのか?



虫たちは、こんなにも、この場所にいたのか?







わたしがムシたちに関心を向けると、急に、ムシが見つかるようになった。



わたしがラジオのスイッチを入れ、つまみを回すと、とたんに受信され始めるのと同じだ。



しかし、虫は、ずっと以前から居たのだし、ラジオのスイッチを入れようが入れまいが、わたしの関心とは無関係に、そこらじゅうを、ラジオの電波や無線は流れていたのに・・・。気づいていない。







わたしが、気づけなかった、というだけ。

関心を向けなかった、というだけ。



わたしが見ることのできるものは、ラジオのつまみをまわして、うまく合ったものだけだったのだ。









すべての子どもたちは、本能的に、



虫にチャンネルを合わせることを知っている。



そして、



お母さんに叱られた後でも、

先生に叱られた後でも、



友達とうまくいかなかった日でも、

ピアノ教室に通わなくてはいけない朝でも、



いつでも、そのチャンネルを合わせることができる、ということを知っている。





そして、虫たちは、子どもがどんな状態であっても、いつでも

その姿を見せてくれるし、目の前を飛んでくれるし、

あちらこちらと巣を探してうろついてくれるし、

・・・

誰にでも平等に、その姿を見せてくれる。





幼いころ、親に理不尽なことで叱られたときを思い出す。



腹を立てていた私は、じっとだまって、

晩御飯に呼ばれるまで、ずーーーーーっと、

水槽のゲンゴロウが泳ぐのを見ていたことがあったっけ。



涙でぼやけたゲンゴロウ・・・。







虫は、子どもたちに、



「もっと、のんびりしていいんだぜ」



ということを、教えてくれる貴重な存在です。



甲虫が行く茎の道
          あの・・・なにか御用で?(ハムシ)