[]あくまでも、それくらいの

.

前回からの、つづきです。











相手の真意を確かめる、



という行動が、案外、少ない。







私たちは、



聞いてすぐに、自分なりの解釈で



パッと反応する



ということが多いようです。





相手の気持ちは、今、本当はどうなのだろう。



さらに言えば、



確かめて、



「どうなの?」と尋ねてみて、



相手が「うん」と言ったからそうだ、



・・・ということも、実は言えない。







どこまでいっても、実は、



相手の本当の気持ちは、分からないのが前提です。







◯◯くんも、半分食べたい、と言った時点ではそうだったのでしょう。



でも次の瞬間は、



やっぱりもう少し食べたいな、となっていたかもしれないし、



食べてみたら、むしろ半分は多かった、



となっていたかもしれません。







ふだん、相手の本意を確かめることもない。



かといって、確かめたから確実だ、ということも言えない。



あくまでも、それくらいのお互いの間でしかない。



それが人間の間柄、実態なのではないでしょうか。





そもそも、一人ひとりが持っているスーパーコンピューター



つまり脳味噌だって、



個別のものですしね。







入力しているものもちがう、

演算の仕方もちがう、

処理の論理もちがうのだから、



同じものが出力されるはずがない。







この子の赤色と、



隣の子の赤色と、



同じではない可能性の方が、



高い。









それでも、

相手の真意、聞けている、と、

思うのは、



なぜなんでしょう。





多くの人が、



「自分には、(相手の真意が)聞けている」、と



自信いっぱいなのは、なぜなんでしょう?





いや、ぺつに、それが悪いとかでなく、



純粋に、なんで人間というのは、



こんな感じに、なってるのでしょう?







たぶん、相手の真意を、



わかった!



と、思いたいのでしょう。







そして、



わかった!



という感覚が、



安心感に近い、似たような感覚だからではないか、というのが、私の推論です。





その、【わかった感覚】が、



安易に手に入ることと、



本当の安心と同じような味がするので、





化学調味料のように、



だんだんに舌を麻痺させていくのでしょう。












そして、



化学調味料の味に慣れた分、



不安を感じやすい



のじゃないでしょうか。







しかし、当てずっぽうを信じることで得られる似非の安心感は、



この世の子どもたちの間に、



多くの混乱を、引き起こしているようであります。







(つづく)



2014-08-17-12-09-27