「忖度(そんたく)」について
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世の中がまっすぐ進むのなら、あえてそこを右や左にずれながら進んでみたい、という思考が、粋(いき)なのだろう。
表側ばかりを見る世間に対し、あえて裏地に凝ることで、ズレてみせる。
内田百輭は、小学生の時点で、くわえ煙草をしていたらしい。
先生が注意をすると、
「校内は禁煙とは書いていない」
と言い張ったそうだ。
これなど、意識的にズレているのだろう。
「忖度(そんたく)」というのは、ズレ、ではない。
恥ずかしいくらいに真正面から、過剰に正しく反応してしまうこと。
だから、無粋なのだ。
その、「忖度」を平気で他人に対して求めているのは、もっと無粋だ。
芸術家は、ことごとく、ナナメ上を目指している。
ピカソは物の形を極限まで追いつめて、常人の想像を超えていった。
マティスもそうだ。写実から離れて、形の面白さを追究し、最後は切り絵の世界にはまってしまった。
当時の大衆が求めるものはこういうものだろう、と、「忖度」を気にする画家であったなら、ぜったいに達し得ない世界だ。
人間の面白さ、ユニークさ、たった一人のその人らしさ、というのは、
周囲に「忖度」したり、させていたりする世界には、輝いて見えてくるわけがない。
しかし。
この世に、ごく自然な「忖度」がある。
大人が、子の気持ちをおしはかってする、「忖度」である。
親が、子どもの気持ちを忖度する、という方向。
先生が、子どもの気持ちを忖度する、という方向。
どちらも、忖度の方向性は、一方通行で決定している。
親が子に向かって、自分の機嫌を忖度させてばかりってのは、逆さまな話。
(でた!・・・また、サカサマな話かよ!)
写真は、マティスの『オレンジのある風景』。