[]待たせる、ということ

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学校というのは、並ぶことが多い場所だ。

それも、自分以外のひとを待つことが、けっこう多い。



たとえば、音楽室へ行く。移動する。

授業時間に、学校内をしずかに移動しなければならないときがある。

クラス全員が並んで、学習中の他の教室のじゃまにならないように、静かに歩く。

この場合、クラス全員がならんでいく。



校庭や体育館で校長先生の話をきいたり、地震の防災訓練だったり。

人数の多い学校では、自分だけが歩いていくのではなく、クラスの仲間と共に移動することがとても多い。



するとネ。



だいたい、自分が先にスッと並んでて、他の子を自然に待つタイプの子がいるわけ。

もう荷物も手に持っていて、順番のところにきちんと並んでいて、待っている。



しかし逆もいる。

しゃべったり、荷物を探したりして、なんだかんだとみんなを待たせるのである。



で、みんなが並んで待っているところにスッと行って、



「お待たせ」







「ありがとう」



もなく、ふつうにそのまま並んで歩き始める。







もう学校では日に何度も繰り返される日常の行為だから、みんななんとも感じなくなっている。







しかし、あるとき、これを話題にすることがある。



待たせるとか、待つとかって、どんな感じ?



とやるのである。









すると、待つ方は、



「早くして」



と思いながら待っている、だとか、いろいろと意見が出る。



ところが、



「早くしなきゃと思いながら、待たせている」



という感想は、出ない。



なぜかというと、多くの場合、「待たせている」自覚がないからだ。







そこで、待たせているな、と思ったときをしばらくの間、観察していくようにする。

これは、自分で自分を観察するように、する。

すると、



「今日、音楽の時間の前に、みんなをちょっと待たせたな、と思いました」



という感想を、ようやく出せるようになってくる。







この感想が出るまでに、何日か、何回か、かかる。

これが面白い。

なんで、こっちは時間がかかるんだろうか?







次に、待たせている、という自覚が生じてきたあとに、今度は次のことを聞く。



「なんで待ってくれて当然のように、これまで思っていたのだろうか」





これは反応がある。



「べつに当然だとは思ってなかったけど・・・」



と出るのである。





しかし、待たせているのが慣れっこになっていたし、とくに何も思わなかったのだ。これまでは・・・。





みんな、待たせた、という自覚は、ほとんどない。

不思議なことであるが。

そのかわり、「人を待ったことがある」という自覚は、強烈に持っている。







つまり。



ひとは、なにかの事象を体験すると、「〇〇だなあ」という感想を持つ。

けれども、

他の人がそうなるように、自分が仕向けた、自分がそうさせた、というふうには、なかなか思わないのである。



だから、多くの場合、人間は自らがこうむった被害を訴えることは得意である一方、自分が加担した(他をそうさせた)事象については否定するのである。



で、道徳の授業なんですが・・・







自分が他の人を待たせてたなあ、他の人に、待ってもらってたんだなあ、ということがスッと受け取れるようになると、それだけで、クラスが明るくなります。



で、その人の行動が変わる。





これをネ。



「待っている人の身にもなってごらんなさい!」



とお説教、やるとネ。





なんだか知らんが、



チッ



と思うものなんす。





待っている人の身になって考える前に、自分が待たせてたなあ、と思えないと、ぜんぶダメなのです。



順番としては、そうなのです。



最初に、



「待っている人の身のつらさ」



を訴えても、それは、逆に、待たせた方をなぜか責めてるような雰囲気になっちまう。



それで、人は素直になることができなくなるんですナ。









 この話、エッセンスが詰まっていますよネ。



 「人を待たせてはいけない」という道徳的なお題目を押し付けるのでもなく、

 「お前は人を待たせているぞ、気が付けよ」でもない。



 ただ、自分を待っていてくれた人がいること。

     逆に、自分が待っていたときのこと。

     待たせてしまったときのこと。



これらを、純粋にふりかえるだけ。





これだけで、クラスに笑顔が増えますが、これが道徳の授業かどうかと言われると、よく分からないです。



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