[]「いじめ防止対策推進法」の件

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いじめをなくすために、何が大事か。



一番は、「ひと」に最大の価値をおいた学級をつくること。



実は、それ以外にはなにも無い。



要するに、心から「仲良い」お互いであれば、「いじめ」は解消する。







しかし、文科省は緊急対応を呼びかけている。



「いじめ防止対策推進法」がそれだ。



ここの総則(第四条)に、「児童等は、いじめを行ってはならない」と文言が盛り込まれた。



また、第二十五条には、

第二十五条 校長及び教員は、当該学校に在籍する児童等がいじめを行っている場合であって教育上必要があると認めるときは、学校教育法第十一条の規定に基づき、適切に、当該児童等に対して懲戒を加えるものとする。
とされた。



禁止すれば、いじめはなくなる。

取り締まれば、いじめはなくなる。

懲戒を加えれば、いじめはなくなる。






・・・ということになっている、というのが現状だ。









ところが、現場の感覚はすこしちがう。



仲良くなれば、

自分について考えられる子に育てば、

相手について考えられる子に育てば、

お互いの人間の関係をきちんと考える機会が与えられれば、

いじめはなくなる、という感覚だ。





取り締まっても、いじめはなくならない。

懲戒を加えても、いじめはなくならない。



かならず、ぶりかえす。





学校が、大人が、最低限、身につけなければいけない教養は、

人間について知る、自分について、知る」 という姿と行動だ。

大人がそういう毎日を生きていることが、子どもに影響を与えていくのは当然。

そうでなければ、いじめはなくならない。







取り締まることこそだ大切な仕事だ、という気分でいっぱいになった大人の中では、

友達を取り締まる目線で生きる子が育つ。



友達を取り締まる目線のことを、『コントロールルック』という。





「おまえ、ボールペン持ってきていいのかよ!」

「おまえ、ノートにこんなことしていいのかよ!」

「おまえ、こんな点数でいいのかよ!」




けっこう、成績の良い子がいじめる側になることって、あるんだよね。

むしろ、そういうケースが増えている感じがする。



大人の姿を真似た、ミニ大人のような子どもが、増えていく。

友達を取り締まる目線をもつ子が、「いじめ」の誘惑に勝てるだろうか。

相手を責めることの誘惑に、勝てない子もいそうだ、と思う。

相手を責めた瞬間に、思考停止するからね。

(自分について考えようとする視点を無くしてしまう)





友達を取り締まる目線をもった子が、いちばん寂しい。

いちばん、必死になって、自分を護ろうとしている。

自分には決して焦点をあてないで、守ろうとする。

心を開くのも、時間がかかる。

最終的には、クラスの全員で、彼の成長を見守っていくしかない。





こういった子どもの心の動きには、焦点が当たりにくい。

いじめ対策基本法の、最初のところに、こういう子どもの心について、書いていかないのは、「甘い」。



(基本理念)

第三条 いじめの防止等のための対策は、いじめが全ての児童等に関係する問題であることに鑑み、児童等が安心して学習その他の活動に取り組むことができるよう、学校の内外を問わずいじめが行われなくなるようにすることを旨として行われなければならない。




法律の主旨にもとづけば、いじめが行われなくなるように・・・、という部分が、中心になっていくはず。

だとすれば、

自分とはなにか、劣等感はどうか、どんな動機で生きようとしているか、嫉妬はどうか、責める自分かどうかなど・・・、ここに焦点をあてていくこと。

そこを授業化する道徳を、まずもってわれわれ教師は考えて実行していくしかない。



教師がすすめていく急所を外さないこと。

対策、対応、という言葉で追われているのでは、まるでダメだ。



いじめは、後手後手にまわるのでは、ダメだ。

命に関わることだ。



責める、ということ。

責めることを当然とする自分の常識。

責めることを「したくなる」自分の心や気持ち。

ここに焦点を当てると、「いじめの問題」は、氷が溶けるように、解消していく。



だれかを責めたくなる気持ちを、『ブレイミング・アディション(非難嗜癖)』という。

『コントロールルック』による、『ブレイミングアディション』に気付くことのできる授業が、道徳の授業の肝要だ。



氷