[]許す、許さない、という話についてのアイデア

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ときおり、殴り合いの喧嘩があります。

先日もありました。

けっこう、バシッと、勢いよく決まってます。



こういうことがあると、小学校だなあ、と思いますね。

大人の世界では、あまり見かけない。(犯罪だし)



まあ、小学校だと、そういうことがある。

大人、教師が止めに入ります。



なんで殴り合いになったのかについて、当の子ども本人が語る。



「〇〇〇〇〇で、許せない、と思った」



どう思います?





許せない、ということらしいです。

分かりますね?





そうすると、教師は、あーだこーだ、言いますけれども。

結局のところ、



「許せ」



という話をする場合があります。





ところがね。

わたしは、「許せ」とは言いません。

「許す」とか「許さない」とか、そもそも、言葉としておかしい、と考えるからです。



この、「許す、許さない、はあり得ない」というアイデアは、なかなか通じる方がいないので、あまりしゃべったことがないけれど、わたし自身は、ずーっとそうとしか思えない。そのため、わたしは子どもに対して、この「許す」「許さない」という言葉は、ほぼ使ったことがありません。







みなさま、「許す」とか「許さない」という言葉の意味、分かります?



私はいつの頃からか、この言葉にとーっても違和感があって、使うことができない。

というか、よく考えると、意味が分からなくなる。



実際の現場では、殴り合いの喧嘩をして「〇〇〇〇〇で、許せない、と思った」という子に対して、「ああ、そう」と反応するけれども、そこで、許せ、とは話しません。言いません。



ともかく、殴ったら痛い、ということと、それを一方的に他に強制している、ということ、殴るで解決にはならない、あなたが本当に解決したいことは別である、と言う話をしていきます。もっとちがうアプローチでしか、あなたは幸福にはならない、ということですね。





でもそれが、「許す」というアプローチなのではない。

断じて、違います。



子どもに「許す」「許さない」を覚えさせたら、生涯にわたって、その子は何かにつけ「許していく態度」「許さない態度」しかとれない人になってしまいます。これ、不幸の始まりですよね。



そもそも、人間が、なにかを許す、許さない、なんてこと、あるの?



ということです。



謝るとか、許すとか。

許さない、とか。

違和感、ありませんか。



「許していきましょうよ」というから、人間が苦しくなる。

それで解決すると思ってしまうから、なおのことややこしくなる。



眉間(みけん)にしわの寄った努力型人間が、がんばって心ならずも相手を許す社会。

これ、いかに生きにくいか。こんな社会にしたら、人間みんな、目が死んでしまいますよ。

想像できますよね。



許す、じゃあ、ないんです。

気に入らないけど、許してみる、じゃあない。



こういう話すると、「相手を許す、自分を許す」とかいう人がいるけど、もっとワケがわからん。

なにそれ。フハハハ・・・。



学校で、「許す」「許さない」を教える道徳教育、そんなの道徳じゃあないだろう、と思いますね。

「許す」「許さない」をいうから、安定しない。



これからの学校道徳教育は、人間とは何かを知る勉強。

人間が人間を、許すとか許さないとか。そんなのあり得ない、ということを学ぶのが、「道徳」、ということになりそうです。



これを、『同格教育』といいます。





それなら、子どもたちも納得!チャンチャン!!



ゆるそう