[]子どものための〇〇会

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秋の音楽会も、つまるところは、子どものためでありましょう。



音楽会の成功、ということを考えるのは当然です。



ただし、その成功とはどんな中身をさすのだろう。



そもそも、音楽会を成功させるために、地域から子どもが集められているわけではない。



ここでいう成功とは、「子どものため」になった、という点において、成功した、ということになる。



では、「子どものため」とは、何をさしているのだろうか。



子どもの幸福のため?



いずれにしても、音楽会は、そのための、ある一つの「きっかけ」にすぎません。







ま、運動会も同じです。

「運動会のために」子どもがいるわけではない。

「子どものための」運動会です。



しかし、運動会が近づいてくると、緊張しておなかをこわす子もいたり、

校庭に、子どもをののしる怒声罵声が響いたりします。

大義名分として、「運動会を成功させなければならん」というのが持ち出されます。



結局、運動会のための子ども、というふうに、いつの間にか、なりやすいのです。







このように、人類がなんだかよく分かっていないのが、手段より目的にあたる方なのでしょう。



「子どもの幸福ってなんだ?」



というの、よく分かっていません。



大体、大人の幸福ってものさえ、よく分からないのです。



そのへんの大人は、分かったふりをしているだけです。



与党も野党も、幸福のために、議場で紙を奪い合って採決しようとしています。

お互いに、自分こそが「目的を正しく知っている」と思い込んでいるのでしょう。

しかしその実、手段に溺れているだけなのです。







それでも、救いはあります。

どの親も、子どもはかわいい。

つまり、子どもの幸福、というのは、だれに聞いても、だいたい、いい線をいっているような気がします。(見当がつかない、という人はいない、という意味で)

そこが、唯一の救いです。



子どもの幸福とは?

と、いつまでもどこまでも、

「わかった」とか言わずに、考え続けていく大人であることが、

子どもに接する大人の最低条件だと思っています。



目的は子ども1