[]だれとも攻め合わず、責め合わず、済む学校

前回からの、つづきです。





真意を聞こうとする文化、というと、一人ひとりが地道にがんばって意識するもの、という感じがあるけど、ストイックな感じは、そこには、おそらくないよなあ。



だって、そうなればなるだけ、仲が良くなっていくものだろうという気がするもの。







ちょっと待って、自分の真意は・・・

ちょっと待った、相手の真意は・・・








知ろうとしていると、相当、見えてくると思う。











こんな会話。

真意が見えますか。









「先生、ギターで校歌ひける?」



「来たばっかだから、無理に決まってるでしょ」








なんか、通わないものを感ずる。



相手の真意を聞こうとすると、こういう会話まで変わっていくと思うね。



パン、パンッ!と、なにかを跳ね返すような会話は、姿を変えていくんじゃないか。





その結果、



だれとも攻め合わず、責め合わず、済む学校になる。



それで当然、という文化が生まれる。




このことだけが前提にあれば、あとの形は、どうでもいいような気がしているんだよね。







理想を描くとき。



新しい学校をつくるとか、なにか新しいことをみんなではじめようとかするとき、そのなかまの間柄をつらぬく、



一本の柱になる文化。





つづく。





冬越しした白い花