[]教師は世間の代表選手

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学校生活、教員生活をある程度、続けてきました。



世間、と子どもとの、接点を見出そうと、してきました。



ところが、教室と世間とは、かなりちがうのです。



わたしは現在、このことに相当、戸惑いを感じています。











そもそも教員は、子どもたちに対して、いわゆる世間とは何かを、伝える存在ですね。



子どもたちにとって、私は、世間の大人の代表、というわけです。



ところが、世間的な価値観で、教室に居続けることは、わたしにとって妙な感じです。











子どもたちは、世間の価値観を、なにかのタイミングで、ときには、吹っ飛ばしてしまうからです。







たとえば、運動会は、世間的には、勝つのが良い、となっている。



ところが、子どもは、そう思っていない、ということがあります。



赤が勝つことに、それほどの価値を感じていない子に、わたしは教員として、指導しなくてはならない、と思ってきました。



勝つのが良いんだ。

勝つということには、大きな意味がある。

勝つと、嬉しいものなんだ、と・・・。



赤が勝った、万歳!!

(子どもはマネして、万歳してくれます)







つまり、子どもを、世間の方に、引き寄せる。

これが、わたしの仕事です。

これは、世間の多くの人が、その通り!と言ってくださることだと思います。



世間のことを学習できていない、いわゆる生(なま)の子ども。

人間のまま、まだ手入れも、加工も、されていない子ども。

この、人間そのものを、世間という世界へ引き寄せるのが、教師の任務です。









ところが、「世間」と「人間」を比べると、「人間」の方が、たのしく、面白く、ひとにやさしかったりする。



あるいは、「世間」よりも、「人間」の方が、豊かなストーリーがあり、そのストーリーにどっぷり浸かった方が、なにか、深く学べるのではないか、と思うこともあるのです。



(つづく)







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