[]通知表はその子の何を切り取って評価しているか

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教員は、子どもを評価しないといけない。

評価と指導が一体なので、「指導」をするなら、「評価」もしないといけない。





さて、ある通知表に、



「林間学校キャンプ場で、毛布を角を合わせてきちんと畳む姿があり、何事も丁寧に進めようとする○○さんの心の成長を感じました。」



とあったそうだ。



総合所見と呼ばれる文章で、担任の先生がそれぞれ思うところを書くところね。



この所見を読んで、どう思われますか?



まあ、この先生、いい先生ですぜ。

文章読んでいても、なんとなくこの先生の人柄が出ている。やさしい感じもある。

ちゃんと肯定的に書いてくれているわけで、おそらく生活全般にわたり、この子に対する印象が、



「いろいろ細かいところまで丁寧にやってくれて、ありがたいな」



というものなんでしょう。この子に対してとても気持ちの良い、すがすがしさを感じているんだろうと思う。だから、まあ、この事例を一つだけ典型的な事例としてここに書いて、ですね、



この子は、いい子です!



という書き方をした(つもり)なのでしょう。









この担任の先生は、毛布の角を合わせてきちんと畳む姿から、心の成長を感じ取った。



ところがここに、もしかすると・・・



とても重大な思い違いが潜んでいる可能性がある!!




単純だけど、



心が成長した子は、毛布の角をきっちりと合わせて畳む(かもしれない)が、

毛布の角をきっちりと合わせて畳む子は、心が成長した子(とは限らない)



ということ。

つまり、内面は当の本人にしか分からないところがあるのに、さもそれを教師が



「言動を見て、分かりました!」



と言っているところに、思い違いがある。

内面を、言動で判断できる、ということが、思い違いというわけ。





同様に、



みんなのことを思って動こうとする子は、ほうきで隅まできちんと掃く(かもしれない)が、

ほうきで隅まできちんと掃くから、みんなのことを思って動いている(とは限らない)



さらに言えば、



心が健康な子は、毎朝元気に笑顔であいさつする(かもしれない)が、

毎朝元気に笑顔であいさつをすれば、心が健康だ(とは限らない)





逆に言うと、



心が荒れている子は、隣の子が牛乳こぼしても助けないかもしれないが、

隣の子のこぼした牛乳を拭かないから、心が荒れている、とは限らない。



心の栄養が不足している子は、校庭のマラソンをしないかもしれないが、

校庭のマラソンをしないから、心の栄養が不足しているとは限らない。
















このことがハッキリするだけで、



通知表って、あんまり意味ない、ということが分かってきちゃう。









それから、子どもの一番大切な、内面、心の健康、満足、心の成長ってところが、



あんまり焦点当たってないような・・・







今の社会って、子どもの心の成長に、まともにスポットライト、当てようとしている?





あるいは、社会全体がそうでなくても、



少なくとも、自分の暮らしている子育てコミュニティでは、



子どものどこに、焦点を当てて、親同士で交流しているか?










こういうこと、こうした点についてだけでも、夏にバーベキューしながらでも、語り合える親同士のつながりが欲しい。



(いっしょにバーベキューやる人、募集します。あ、同釜の会もあるな)







清い水を守ろう!