[]「叱らない教育」で3年過ぎた結果www

「叱らない」が、ふつうのことになって、気が付いたら3年過ぎております。



一部、「叱れない先生は無能」という論調がありますが、



「叱ることで進展しているだろう」、という気になっていることが、気のせいだ、ということの確信も、同時に確固たるものに。(叱ることでなにか進むの?)



「叱れない先生」を非難する人たちは、おそらく、教育にもっとも悩みを抱えている人なんだろう。



目の前の子どもと、どうしても気持ちが通じていかないもどかしさ、それを、「叱る」ことで紛らわせている。

「叱ることが当然のこと」という思いをぐらつかせたくない。

そのために、「叱れない先生」という言い方で、「叱ることを当然としないあり方」を非難する。

裏返して、自分の気持ちをフォローしているのだと思います。



やってみれば、「叱らない」はあまりにも簡単。

このことがなぜもっと普通のことにならないのか、ということが不思議にさえ思えてきます。



聞くところによると、諸外国では、他人の目の前で子どもを叱責するということが、ほとんどないんだって。

(よく知りませんが)



しかしまあ、たとえどこの国の人であっても、子どものすることに かちん ときたり、強く圧迫して、言うことを聞かせたい、というように思うこともあるんだろうと思います。



だからといって、「叱る」とか、「怒鳴り声」とか、「叱責」とか、「問責」とか、「脅迫する」とか、そういうことは、不要です。有害です。やればやるほど、心の距離は、離れていくよね。



いくら離れても、またお互いが努力をして、赦しあって歩み寄るのが家族なので、時間が経ってみると心配は要らないのかもわかりませんが、まあそれでも、不要なものを



あえてやる必要は、ないよね・・・





今の教育行政を見ていると、あまりにもおかしなことが多いし、問題が山積みなので、それら一つ一つを撃破していきたくなる気持ちもわかりますが、いくら





○教育委員の任命方法を変えても

教育基本法を変えても

○学習指導要領を変えても

○職員の管理の在り方を変えても




そんなものをいくら変えても、そーんなものは、ほんの末梢的な部分にすぎません。





子どもの幸福に直結しているのは、



目前の、大人のふるまい



です。









教室でなら、教師の一挙手一投足に、ほとんどすべてがかかっていると思う。



で、すべてをなし崩しにしてしまうのが、



教師の 「怒りの感情」 だと思うのです。









○怒れば怒るほど、子どもは本音を隠し、大人を遠ざける。

○大人は疑いを覚え、隠れたものを見つけるのに必死になり、管理義務を勝手に背負う。




これが、お互いの「信頼関係の構築」につながるか。





「怒りの感情によってコントロールされなかった子どもの幸福」



というところに、焦点を当てていきたい。



「怒りの感情」とは無縁、という環境で育った子どもが、どれだけ屈折しないで済んだか、というところ。

「怒りや脅迫」で、もし仮に育ったものがあるとしたら、その「育ったもの」とは何か。(←育つって言えるかどうか)

「怒り」で操作されなかった子は、いったいどんなことに価値を置くようになるのか(方向性、可能性)。



それ以外を考えたりやったりするの、もう時間がかかりすぎるから、やめたい。





『コミュ障』(コミュニケーション障害)なんて言われて、

人間関係に悩む子が多い。

これをどう考える?











先日、発達障害の講座に出たけど、そこへ参加していた先生たち、





○困った子がいて、わたしが悩んでいるから、解決したい

○それで、どうやってその子をコントロールするか




ということにしか、関心が無い感じ。



子どもをコントロールする、ということを、脳髄にまで浸透させている。



そういう発想で、終始している。先生たちは、いつから、

どこで、どうして、そんなふうな思い方を覚えたのか?











「大人が困ることなんて、一つもない」
という私の発言は、ほとんど掻き消されるように、会議場の天井へ向けて、雲散霧消していきました。



たった一人、現場の講師の方が、



「そうです。大人が困る以上に、その子が困っているのです」



ということを言ったが、



じゃ、大人も困っているちゅうことじゃん。



教育現場に、大人が困る、ということは、ありえないです。

少なくとも、子ども自身のことで。







子どもとは