[]「わかりやすさ」の価値と「わかりにくさ」の価値
発達凸凹のお子さんにとって、「わかりやすい」ことは、とても大事。
分かりやすいから、理解できる。把握できる。安心につながる。
分かりにくいことは、その逆で、理解できないし、不安になる。
だから、教師や親はできる限り、あいまいな言い方を避けるし、
妙なたとえ話は避けるし、
慣用句や、気の利いた比喩なども、すべて、避けたい、と意識する。
たとえば、そうじの時間にバケツが重たいので、思わず、
「手を貸して!」
というと、
「???」
です。
手なんて、貸せるか!と思うわけね。
「バケツをもって」
と言えばよかった。
テレビのバラエティ番組のノリで、
「あほやな〜」
というと、
「あほじゃない!」
とマジで返されます。
窓を指さして、
「ここ掃除してね」
というと、
その下の床をぞうきんで拭いている。
本当は窓拭きしてほしかったので、
「窓を拭いてほしかったんだけど」
というと、Tくん、
「ここ掃除してって、言ったじゃない」
ところで、わたしが昼休み、みんなのんびりくつろいでいる教室にいて、みんな外へ遊びに出ていったので、思わず気分よく、
阿久 悠作詞の 『津軽海峡冬景色』を、なんとなしに口ずさんでいると、
Tくんがそれを聞きつけて、からんできた。
「青森駅は雪の中って、えっ!駅が雪の中にあるのぉ!そんなわけないじゃんねー」
という。
また、
「風の音が 胸をゆする 泣けとばかりに ああ ああ〜♪」
のサビの部分では、私がマイク(に見立てたプロッキーのペン)を握って熱唱しはじめたのを見て面白がっていたのに、急に、
「音がゆするって、音が、音に腕とかあんのー」
と言っていました。
このことから、私は、
「わかりやすさ」は、決定的に重要だ、という認識に至る。
おそらく、だんだんと、世の中は、わかりやすくなっていくね。
その一方で、阿久 悠さんのような、
『ことば』
や
『詩』
にこだわる、いわゆる作家、詩人とよばれる人たちの表現も、徐々に変化していくのではないか、と思う。
少なくとも、発達凸凹のある人たちにとって、分かりやすいように、少し配慮しよう、という動きが加速していくのではあるまいか。
落語は、最初からユニバーサルデザイン、です。
落語は、「わかりにくさ」の価値を大事にして、イマジネーションを広げる芸だ。
こういうものは、これからはすごく価値が出てくる。
噺を聞いていても、相当、イマジネーションしないと、場の雰囲気や情景、空気、人間の顔から着物からあたりの様子まで、すべて見えてこないんだから。
これはもう、
わかりにくさを前提にして、イマジネーションを強要する芸
になってくる、と思う。
(少なくとも、発達凸凹のある人たちにとっては)
ただし、そのイマジネーションの量や質は、問われないのだから、かえって万人向けなのだ。
(どんなふうに想像したって、いいんだからね。話の筋さえ把握できれば、だれも困らない。混乱しない)
ところが、ふと気が付くと、日本には、
「わかりやすさ」と「わかりにくさ」を両立させている人がいた。
絵本の世界では巨人と呼ばれる、長新太さん、その人、であります。
発達凸凹のTくんも、長新太さんの絵本は大好きです。
わかりにくいんですがね。だって、ありえない世界を描いてますから・・・。
でも、そのわかりにくさを、わかりやすく、絵にしてくれている。
だから、いいんです。
結局、わからないのもOK!という世界なんでしょうね。落語や、長新太さんは。
これがいちばん、やさしい、というか、真の
「ユニバーサル」
という気がする。
分かることを、強要しない文化。
これを普遍化しないでどうする。
言葉で説明すれば、分かるはず、という前提の文化は、もう卒業しなけりゃならない。