[]みんなと一緒にやれるようになる、が目的ではない

学校では、これが大事、とされている。



「みんなと一緒にやれるようになる」



そのために、ルールもあるし、躾も行われる。



やんちゃくんや、おてんばさん、あるいは発達障害の子、はたまた、心寂しい子どもなど、みんな、



「みんなといっしょにやれる」



ことが第一目標になる。







ある子が、みんなとそろって、遠足に行けた、というので、先生たちが職員室で嬉しがっているのを見たことがある。



ほとんどやる気をみせなかった学校行事に、それまでは罵詈雑言を浴びせ、クラスメートのアイデアや努力にケチばかりつけていたA子が、次第にクラスの仲間に迎えられ、しまいにはクラスの発表に参加し、練習するようになった。



この時の担任が、その日、暗い印刷室でひとり、輪転機をまわしてプリントを刷りながら、声をあげて泣いているのを見たことがある。





みんなと一緒にいること。



そして、一緒に、手を動かし、心を動かしていくこと。



まずは、このことが、大事にされる。



このことは、すべての出発点にあたるだろう。







ところが、学校では、このあと、が続かないのだ。



発達障害学習障害を抱えるTくんに、体育館でみんなといっしょに体育座りをして、校長の話を聞く、というルールをしつけた。

それはそれとして、で、そこから、が肝心なのだと思う。



しかし、



「Tくん、みんなと一緒に校長講話、聞けてたね」

「そうそう」

「それも、体育座り、きちんとしてたじゃない」

「うれしいよねー、ほんとうに安心した」





これで安心してもいいけど、むしろ教員としての知恵と力を発揮するのは、これからだよね。



まだ、必要条件と思われることを、ともかくも整備して、学校の望むルールに適応させた、というだけに過ぎないのだもの。





適応させれば、それでよい、ということではない。

それは、ただの、出発点だ。



そこから、本当の教育が始まるんだろう、と思う。

(体育座りができるからって、そのことが本当の価値ではないのだろうしね)