[]寝袋(ねぶくろ) その1

.

机の上に、写真を飾っている。

猿が温泉につかっている風景である。



1111
猿が、実に幽玄な表情で、いかにも温泉を味わっているというようにまぶたを閉じている。その顔が何とも面白く、見るたびに可笑しくなる。その表情をみているだけで、自然に親近感が湧いてくるから面白い。



本によれば、特に日本の猿だけがこういう習性をもつようだ。チンパンジーキツネザルが温泉につかっても、あまり似合う感じもしない。日本の猿は、元来真っ赤にほてったような顔色をしているからか、なんともぴったり合う気がする。





そういえば、変なことを思い出した。猿に、食糧を奪われたことがあるのだ。

三重県の山で、キャンプをしていたときのことだ。それは、若者たちが集まって、きれいな山小屋に泊まって山仕事などを体験する企画であった。



夕食に本格派ラーメンをつくろうというので、厨房には有志の女の子たちが集まっていた。その日、野菜や肉類を豊富に入れて、具たっぷりのボリュームラーメンが製作される予定であった。

食材が、山小屋の縁側に並べられていた。縁側の横に道がついており、そこから上は急斜面となり、大きな木の幹が連続して見えている。小屋の脇には清流が流れ、そこから水分を含んだ涼しい風が吹き込んできていた。



川の中ではスイカが冷えていて、その隣にはオレンジジュースの紙パックが並んで水の中にしずんでいた。オレンジ色のイラストは、遠めにも美しく映え、川の水に洗われている様子を、小屋の中からもくっきりと見ることができた。なにしろラーメンはスープが決め手だというので、女の子たちは昼下がりから懸命になっていた。ダシをとったり、具を刻んだり、馬鹿でかい金ダライで湯を沸かしたりしていた。



たぶんこの頃、猿がやってきていたのだろう。



ラーメンの麺が、誰もいない縁側に置かれたままになっていた。お腹をすかせた山の住人は、箱を開け、麺を取り出すと、茹でないままの麺をいくつかその場で食べ、あとは抱えられるだけの量を抱えて、静かに遁走したらしい。女性たちは誰一人、その行為に気がつかなかった。





夕刻になって、日暮れた山の上から、男たちが帰ってきた。

山仕事の枝打ちを終えた男たちが疲れた足をひきずりながら、汗で汚れた手ぬぐいを腰からぶらぶらさせて下りてくると、あたりはにわかに騒がしくなった。川の横でドラム缶の風呂を沸かしているので、河原からもうもうと煙りが立っている。すでに何人かの男が、作業着を脱ぎ捨て、Tシャツ姿になると、薪を手にしてドラム缶のまわりをうろうろしはじめた。



「お、野菜スープじゃんか!」



鍋の蓋を開けてみた、気の早い男が口笛を吹くと、厨房から女の子の声が飛んだ。



「今日は、ラーメンよ。それはスープだけ」



「おお、ラーメン!」




大げさに喜ぶ男どもを尻目に、厨房ではますます調理に追い込みをかける。



その後、女の子が勇んでラーメンの蓋を開けてみると、箱の底には麺の残骸がわずかにこぼれていただけであった。縁側にも、ほんの少々、麺がちらばって地面に落ちていたが、あとは汚されたあともなく、きれいなものであった。



「まるで、立つ鳥あとをにごさず、だな・・・。猿の場合はなんて云うんだろ」



山は汚してはいけない。山の住人である猿が、山のエチケットを心得ていたのは、むしろ当然だというべきであろう。縁側には、山の土がわずかに残っていたけれど。





本当に野菜スープだけになった夕食を終え、床につくころには、すべてが笑い話になっていた。寝袋にくるまり、薪ストーブからもれてくる、消えかかった薪の匂いをかいでいると、猿の表情がちらついて笑いがこみあげてきた。



さる