[]子どもは、答えを『答え』にしない件

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子どもは、答えを『答え』にしない。

答えを、一応のものとして聞き置いて、先に進もうとすることが、できる。

いったん、「うん、わかった」を横における。

「もう、わかった」を、眠らせて置ける。



次から次へと、調べていこうとする。

それが、子どもの良さ。



大人は、あまりにも簡単に「わかった」を言いたくなる。

夏休みくらい、間近にいる子を見て、学ばないとね。



大人がいちばん

「わかった」

とか

「気づいた」

と言いたくなるのが、人間の心理面。



自分の心なんだから、わかってる、と思いたがる。

ところが、ちっとも分かっていない。

じっくりと考えたことなんて、ない。



浅い、浅い、浅いところで、「わかった」と言いたくなる。

これは、不安のうらがえし。

自分の心の動きや状態、分からないはずがない、と思っているのだ。

分からないという自分に、不安を覚える。

だから、

もう分かった、〇〇だからだろう、ほらね、これでいいだろう、とすぐに、言いたくなる。



好きとか嫌いについては、とくにそう。



どうして、キライ、と判断し、その瞬間に嫌悪感を感じるのだろう。

どうして、心が締め付けられるような感じを受けるのだろう。

その存在を認めず、あるいは消滅を願い、相手が変わることをひたすら願い、相手が変わらないことを呪い、自分の不運を嘆いた瞬間、なぜ、その強い絶望と、あてどなく呻きつづける自分の姿を悲しく思うのだろうか。



これが、なぜなのか。



「そんなん、当たり前やろ!!」



というところでSTOPするのが、関の山。

大人には、無理な人が多い。



子どもは、答えを答えとしてみない。

わかった、としない良さを持っている。

その証拠に、



「嫌いだ、と思ったら、どんな気持ちになる?」

「いや〜な感じになる」

「じゃあなんで・・・、嫌いだな、と思ったら、いや〜な気持ちになるのだろう?」




という質問にも、ちゃーんと、考えようとするもの。



大人は、



「そんなバカにしたような質問、するな!!」



って、怒りだす人多いと思う。



自分の中に、なにかを嫌悪する感情が湧く。
それは、いったい、どういうことなのだろうか。

どうして、そのような自分の状態であるのだろうか。

なぜ、相手の変わることを願った瞬間に、自分の心の中が真っ黒になるのだろうか。

このことは、いったい世界全体とどのような関係があるのか。

このことのカラクリは、普遍的なものなのか、永遠のものなのか。世界中の誰しもが、そうであるのだろうか。





こんなこと、大人はほとんど、無理でしょう。考えるの。

耐えられない。

大人は、善悪で裁かれ続けている(あるいは自分で裁く)から、もちこたえられないのだろうと思うネ。

すぐに、自分が攻められているような気がしてしまうのでしょう。

「あなたはダメな人間」と、判断された気分に陥ってしまうからかな。

なんでなのかね。嫌い、という自分を考えてるだけなのに。



子どもはそれが無いか薄いからか、と思う。

なんで自分は、そういう心の動きをしているんだろう、と純に考えることができる。

責められているとか、そういう余計な感覚は無しで、ね。



大人の宿題こたえを2