[]ゴマンといる「先生」のことなど

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今日はたまたま岡崎駅まで出て、(めったにいかない)あちこち用事を済ませて回った。



駅前を歩いていると、「先生!」という大きな声がする。



わたしは、どうしたと思いますか。



こういうとき、わたしは呼吸を整えてから、ゆっくりとそっちを見るのですよ。

なぜなら、わたしの顔を覚えている人が、市内には幾人もいて、中にはこちらが完全に失念してしまっている方もいるから、呼吸でも整えてからでないと顔を見る勇気が出ないのです。



わたしはびくっとしてから、諦念に心を染め、えいや!と声の方を見た。



すると





なーんだ。



おれじゃあ、なかった。





視線の先には、年配の女性に向かって、興奮気味に話しかける若者の姿が。

おそらく、女性は学校の先生だろう。

若者がしきりと、「先生!本当なんですよ、それで・・・」と話しかけている。



わたしは肩をすくめて去ろうとしたら、なんだか最後に



「お教室の方でも・・・ちがう場所でも先生のお話を・・・」



みたいなことが聞こえてくる。

どうやら、この年配の女性は、カルチャーセンターのようなところの先生らしい。華道か、茶道か、なんだろうか。ピアノの先生、ということもあり得る。





「先生」と呼ばれるような大人は、担任の教師以外にも複数いるのだ。

塾の先生、ピアノの先生、バレエの先生、水泳の先生、サッカーのコーチ・・・。



子どもにとっても、一人ひとりの「先生」との関わりは、どうしても「薄味」になってこざるを得ない。

どこもかしこも先生だらけの現代社会では、それも当然のことなのだろう。





「先生」と呼ばれているからといって、なにかそのままで敬愛されたり、感謝されたりするわけではもちろんないよね。



子どもの心に、元気や意欲を与える、というのが、本当の先生に求められることだ。



子どもが元気になる、意欲が増す。

その素になる要素は何だろうか。



わたしはそれが、「安心」だと思う。



認められている、という安心。



言い換えると、



「先生は、わたしのことで、困ったりしない」



ということ。



自分のことで顔をしかめたり、考え込んだり、悩んだり、つらくなったり、心配したり、余計なエネルギーを消費したりしないで、わたしのことをひそかに気にかけながらも、安心してくれている先生。



先生が、わたしのことでは、いつも安心してくれている。

それが、子どもに元気をくれる先生の、心のありよう。





心配する人でなく。

安心する人。



自分を安心してくれている人の存在が、大きいのではないか。



仲直り