[]フランスのデモと子どもの喧嘩

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宗教について。



おそらく、神様には、だれがなってもよい、というのが、日本人の感性なのでしょう。

地域の神社の神様がいったい誰なのか、本当は知らないのに、お参りしている。



天照大御神

菅原道真

宇迦之御魂神

建御名方神

素戔嗚尊

・・・





日本の神の一覧を見ると、すさまじい数の神様が、日本中のいたるところで祀られている。



おそらく、大部分の日本人にとって、本音の部分では、神様は誰でもいいのでしょう。



すると、いつかイスラム教が人口を増やしたとき、どうなるか。

日本にも、イスラムの方たちが移民となってたくさん信者が住むようになると、どうなるか。



おそらく、アラーの神も、日本には柔らかく迎え入れられるだろうネ。

これまでの、長い歴史の通りに。

そして、たちまちにして、日本流のアラーの神様に変貌をとげる、と。



モスクには、神社風の注連縄。

正月にはモスクで鐘をつき、そばが振舞われる。



最初のうちは、アラーの神を偶像化しないために、ゆるキャラ化しないための、ありとあらゆる工夫がなされるだろう。しかし次第に、アラーのゆるキャラが、ゴマンと出てくるにちがいない。



考えてみれば、結婚式の誓いは、日本人の多くが、イエスキリストの前で誓っている。

しかし、死ぬときは仏式だ。

クリスマスが盛況になっても、数日後、やはり正月、元旦となれば日本風に切り替わる。

いつの間にやら、すべてのものが、日本風になってしまうのが、この国のやり方なのです。



お米一粒に一つずつ、神様がいるという雰囲気が、まだ日本には残っている。

パンの給食だって、戦後の一時期、ものすごい勢いで広がったけれど、平成になって、給食もいつの間にかパン食が減り、ご飯の給食に戻ってしまった。



いつの間にか、日本風に、もどるのです。なにもかもが・・・。



さて、日本に入ってきたイスラムの教えは、どんなふうに日本風の味付けに変わっていくのか、それを原理主義者はどうみるのか。



ああ、どうか・・・、すべてのイスラム教徒が、日本風の味付けに対して、寛容であってほしいと願う。









なぜこんなことを考えていたかというと、今世間を騒がせている、フランスのデモを見たからで。

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とても、きなクサイ。臭い。

デモを喜んでいる人は、いったい何を喜んでいるのか?



世の中には、いろんなものをとことんネタにしたがる人がいる。

ある種の人たちにとっては、タブーというものがあること自体が、タブーと思えるのだろう。



ところが、タブーをうまく料理するのは、幼稚な反発心だけではダメなのだ。



お互いに死を覚悟してまで、頑迷に相手をからかう、という態度は、せいぜい、中世か近代まで。現代では、そのような【幼稚さ】は、時代に合わない。



自分がなぜそれをタブーと思うのか、タブーとみるのか、という哲学。

これって、とことん人間が、苦手とするもの、なのだろうネ。



「なんで、嫌いなのか」



<なにを>、きらいか、ではなくて、<なぜ>、きらいか。

そこを考えることが、人間は、とても、苦手なのだ。

これを考えるのは、すごくエネルギーが要る。

なかなか考えようとするスタート地点にすら、立てない。



考えることができるようになるために、なにか、【必要な条件】があるのだろう・・・。



今、教室で、そこが何か、見つけようと取り組んでいる。



いちばん見えやすいのは、子ども時代の、大好きな友達とのケンカなんじゃないか、と思うから。



大好きな友達の喧嘩を、とことん、見つめてみよう、という学級。



そこから、人間の心理、対相手心理、社会の人々の心理にまで、学びを広げていきたいね。



でないと、なんで人は戦争をするのか、という一番基本的な子どもの問いが、放置されてしまうのは忍びないことだから・・・。



世界で戦争や紛争が起きると、子どもたちから、かならず質問が出る。

多くの先生が、それを聞いて、なにか答えようとして、答えていない質問が、これ。

「先生、なんで戦争してるの?」
世界中の先生たちが、この質問に、どう答えているのだろう?

それを10000人の先生から聞いて、すべての答えを集めて、出版してほしい。

出版社の方、どうかお願いします。