[]「我慢」の価値ばかりで、「願い」の価値が見えていない

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教室で、同時に2人の子がガムテープを使いたい、と思った。

ところが、ガムテープは、1個、である。

一人は、我慢をした。

すると、担任に褒められた。

担任に、「我慢」「価値」を教えられたのだ。







しかし、実は、そんなことを褒められた程度では、納得していない。すっきりしない。なぜなら、本心を分かってもらっていないから。



本当は、使いたかったのだ。そして、そのガムテープで、自分の作りたいものがあったのだ。その作ったものを、見てほしかったのだ。その作品をみて、すごいねえ、と褒めてほしかったのだ。

ところが、そこまでの本心を伝えることなく、ただ、「我慢してくれて、えらい。やさしいね」という程度のことをいくら言われたところで・・・。







「ゆずりあって、使っていました。」

こういうことに、すごく価値をみとめるのが、今の常識だろうと思う。

職員室でも、こういうことに、たいへん価値をおこうとする。

しかし、実態は、ただ、表面上我慢しただけで、心底では「よい」と思えていないから、気持ちの上での負債を抱えたように感じた子どもを、生み出しているだけ、ということはないだろうか。







「先生、おれ、ずいぶん我慢したんだよ」

と言える子はまだよい。

問題は、言えない子。

言えない子の心に、「足りなさ」は、なにを育てたのだろうか。







「我慢」の価値を教える前に、担任には、やるべきことがあった。







「願い」の価値を教えるべきであった。







「我慢」をしたことがよかったのではない。

「我慢」には価値がない。

「我慢」はむしろ、無駄、(かもしれない・・・)。

「我慢」の価値に関して、大人はずっと、「躾(しつけ)」の美学をあてはめ、焦点を当ててきた。







焦点を当てるのは、むしろ、「願い」の方。

「願いをもっているのが当然である人間が、その願いを互いに受け、叶え合うのがもっとも優れたコミュニケーションである」







ガムテープが1つであろうが、2つであろうが、1000個あろうが、

実は、「足りなさ」とは一切、無関係な現象面。

「足りなさ」は、ガムテープが1つだろうが、2つだろうが、1000個あろうが、見つかる。







すでに、世の中には、「足りなさ」が満ちている。

かゆい背中を掻いてほしい人がいる。

孫の手が足りないだけだ。

すでに、人の願いは、満ちている。







その「足りなさ」を知り、受け、心が動き、満たしあう。







そのサイクルが動き出せば、「生きる力」が目の前に現れ、見えてくる。







「生きる力」のあるなしは、「足りなさ」=「願い」が見えるか見えていないか。







子どもに「生きる力」をつけたかったら、「足りなさ」を知り、その「足りなさ」=「願い」を遠慮なくじわじわと伝え合って、お互いに満たしあえるようにするだけ。





我々は、いつでも何でも、満たしてもらっている。











写真は、稲の朝露(あさつゆ)。

稲の朝露(あさつゆ)