[]一度きり!自由主義で行う「運動会」のこと

運動会とはこういうもの、という思いは、かなり強い。



なんせ、歴史があるから。

おじいちゃん、おばあちゃんの時代から、

「こういうものじゃから」

というもの、きっと強い。

どの人の頭の中にも、ある。



その昔、骨のある校長がいて、



「行事はすべて、一度、白紙撤回します」



ということがあったらしい。



K県S市の話です。(都会です)



もう退職された方だけど、あまり武勇伝にもなっていないのは、おそらく、多くの教員が



「はた迷惑な」



と思ってしまったからだろうね。



白紙撤回したものの、それを一から、再度構築しなければならないし、何をするにしても、<そうしようとする理由>を説明しなければならない。これは、教員の仕事量からしたら、破格の作業量でありまして、そんなことは到底、現場に受け入れられるはずがない。



なぜ開会式をするのか、

なぜ紅白に分けるのか

なぜ玉入れをするのか

なぜ徒競走をするのか、




そうしたことを、一から話し合うなんて、そんな無茶な、ということでありますね。

現場の先生方、とくに体育主任の先生が、恨みにうらんだことでしょう。



「昨年通りで」



という一言で、スムーズに流れるはずだった「運動会」が、ともかく大変な行事になってしまったのですから・・・。

校長の考え、ひと言が、これだけ現場のしんどさを、コントロールしてしまうのです。



現場から総スカンを喰って、むしろ煙たがられて引退していった校長先生ですが、その後は市の博物館に少しの間勤務されていました。





ところが、私が博物館でその話を伺ったときに感じたのは、



「そりゃ、おもしろそうだ!!」



でありました。



これまで通りの運動会を、どうしても続けなくてはならない理由など、本来どこにもないのです。

考えてみれば、なぜ運動会を毎年やるのか、改めて理由を述べると、その中味たるや、本当に貧弱なものです。



「これまでのスタイルに価値がある」



となんとなくみんなが言っているから、そういうことになっているだけのことで、どうしてもやらなくてはならないものでもありません。



そうして頭の中身を軽くしてから、これまでの前例にとらわれずに会議を重ね、結局のところ、



「こんな運動会にしたい」




という教員の思いや願いのようなものがたくさん出てきて、たいへんに運動会が盛り上がったそうです。



入場行進は、オリンピックのような感じで、各クラス・学級の旗を掲げて、ユニークに手を振りながら歩いたそうです。

あるクラスはダンスを踊りながら、はたまた手拍子で歌を歌いながら、という具合で、子どもたちのノリがまるでちがって、終わった時には保護者から感動のメッセージがごまんと寄せられた、ということです。



(校長本人が言ってるので、割り引いたとしても、なんだか楽しそう)



さらには、自主参加種目、というものをメインにしたとのこと。



○年生は、この種目、というものではなく、各クラスから、参加したいものを募ったそうです。



すると、意外や意外、シンプルな100m走が人気だった由。



パン食い競争は、PTAの保護者向けの企画だったそうですが、じゃんけん大会で勝ち上がった子どもも参加したとか、逆立ち競争だとか、マラソンとか、なわとびとか、くつ飛ばしとか、・・・。



組体操もあったそうですが、新体操をされていた経験のある教師が主導したおかげで、「新・組体操」になったそうで、これは1年生から6年生までの好きな子ばかりが集まって、それはそれは、優雅で見事であったらしい。

やってる本人たちも、嫌々やってるのはいないので、美意識を大切にする子が集まったんでありましょうから、楽しかったろうね。





総じて、あまり、「がんばった」感のない運動会に仕上がってしまい、やってみたところ、保護者の受けは良かったにかかわらず、運営に奮闘努力した教師陣のほうの



あとあじ




が良くなくて、翌年以後は、結局もとの、学年ごとの、オーソドックスな競技スタイルに変わってしまったそうです。





あまりにも、運動会自体の、切り口が豊かになりすぎたおかげで、収拾がつかなくなってしまったのでした。



そうでしょうね、だって、評価できないんだもの。



これまでは、

きれいで、きちんとしていて、まとまっていて、努力が見えて、子どもたちがよく動いていて、汗が光っている、という評価視点を持っていればOKだったのに、



こんな、フレキシブルで自由で、かつ評価の難しい、いわば<人間のあれこれ>が詰まりすぎている運動会などをやられては、感想が多岐にわたりすぎて、収拾がつかないのです。



落ち着かないのは、「評価」に慣れてきている、依存してきている、先生たち、というわけだ。



だから、自分たちで、自分たちの首をしめた。







それを、遠いまなざしで、



「もったいなかったと思うんだよねえ。せっかく、べつのものを味わったんだけど、そのことに対しての自信もなければ、勇気もないんだ」




と、振り返っておっしゃっていた校長先生が、なんだか、・・・



という感じでしたよ。







今、振り返ると、こんなに、ユニバーサル・デザインで、発達障害の子にもやさしい運動会って、ああー、いいな、と理想に思えるのですが。

(おそらく、10年くらい、早すぎたんでしょう。今なら、この価値に気付く教員もいるんじゃないか。当時はおそらく気づいてもらえなかったんだろうナ・・・)





もしこれをご覧になっていて、



「お、これはおそらく、ワシのことでは」



と思われた、K県、S市の元校長先生、ぜひ、またお会いしてお話をしたいです。








とびだせ!子どもたち!