[]「叱る・怒る」をしない・・・幸運な一年間
一年間を振り返ってみる。
今、担任している学級。
ありがたいことに、前任者の先生の指導の賜物。
本当に叱ることが、ない。
しっかり、何をどういつまでに行動すればいいのか、分かっている。
2年生なのに、教室や学校での立ち居振る舞いが、分かっている。
きっと、おうちでの親とのコミュニケーションも行き届いているのだ。
連絡帳や服装、もちもの、宿題の中身、ありとあらゆることに、そういう恩恵を感じ取れる。
さて、1年間、気がつけば、一度も声を荒げることなく、ここまでこれてしまった。
1年の最初。担任してすぐの時。一日が終わるたびに、
「ああ、今日も声を荒げずに、一日を終えることができた」
とホッとしていた。
いつしかそれが当たり前のようになり、
「先生は怒らないヨ」
と子どもが言うようにまでなった。
子どもは、きちんと教えた通りにするのである。だから、こちらは褒めるしかない。
たまに、
「あの先生は、怒らないらしいゾ」
ということを聞きつけた1年生が、教室までわたしの顔を見に来たことがある。
廊下側のドアからこちらをのぞきこんで、
「○○先生って、怒らないの?」
「わかりません。怒る時もあるかもしれないヨ」
そう言うと、不思議そうな顔をして、
「でもさっき、○○ちゃんが怒らないって、言ってたー」
いったい誰が、怒らないと言ったのか。
そういうウワサまでが、出るようなことになった。
さて、怒るときもある。
でも、怒鳴りはしない。
怒るというよりは、きっちり注意をする、という感じか。
上述の1年生が廊下を走る。
わたしが目の前に立ちふさがっている。
ぶつかりそうになって、止まる。
そのまますりぬけようとする。
わたしは、すりぬけようとする子に、
「止まりなさい」
と、静かめ・ゆっくりめ・低めの声で言う。
すると、あれ、という顔をして止まる。
廊下に響く声で、
「あぶないです。ぶつかったら怪我をします。ろうかは歩きます」
と言って、
「1組の前まで、もどりなさい」
「そこからやりなおし」
しずかな声で、指示を出す。
廊下を歩くことの、やりなおしがあるなんて、おにごっこの最中で廊下を走っていた1年生にとっては衝撃的なことだ。
やりなおして歩きはじめたら、
「ああ、いいですねえ。そんなふうに歩きましょう」
とうれしそうにする。
でも、「なあんだ、○○先生だって、怒るんじゃないか」と、1年生は思っているかもしれない。
でも、2年生は、
「先生は怒らない」
と思っている。
実際、教室で怒鳴ったり、叱りつけたりすることがないからだ。
かなり、優秀なクラスである。
もしかすると、人生で、こんな調子のクラスを受け持つのは、もうこれきり、になるかもしれない。
そのくらい、優秀なクラスだ。
怒鳴らずにやり通す。
それが可能になったのは、わたしが主任だからである。
学年主任なので、どこにも遠慮することが無い。
立場が、主任じゃないと、ちょっと変わってくる。
ひどく怒鳴りつける学年主任とコンパを組むと、むずかしい事情が出てくる。
なんだが人間関係がぎくしゃくする。
なぜか。
学年主任が怒鳴ってばかり。
となると、
隣の若い先生は、怒鳴らずに指導する・・・わけには、ちょっといかない。
子どもが予測通りに動いていないと、年配の学年主任の先生から、
「はやく怒鳴って注意して叱ってください!」
というような、目線、シグナル、ビーム光線が担任に飛んでくるのである。
これだと、やはりちょっと若手としては、焦って叱る場面も多くなろうと言うものだ。
今年は、わたしが主任。
コンパを組んでいるのは、わたしよりもよほどベテランの先生だ。しかし、主任のわたしが、「怒鳴らずにいる」状態なのについて、一定の理解を示してくれている。
そして、その先生も、ほとんど、怒鳴る姿勢のない先生なのだ。
これは、とてもありがたい。
こんな状況で一年間やってこれたのは、幸運が幾重にもかさなって表出してきた、という感じ。なぜ今年は、こんなふうな巡り合わせで、ここまでこれたんだろうかなあ・・・。(知り合いにもらった、玄関先に置いてある蛙の置物、幸運を呼ぶと言っていたが、あれが原因か・・・)
昨年やその前の年を考えると、今の状況からはほど遠かった。わたしも、焦って叱りつけていた。
そして、声を出せば出すほど、荒げれば荒げるほど、学級は落ち着かなくなっていくのであった。
なぜか。
発達障害の子がいたからだ。
この子たちは、担任の心境を、そのままコピーする。
だから、落ち着かなく焦っている大人がいれば、それをコピーする。
「なにしてるの!!」
と強い調子で大人が言うと、
「なにしてるの!!」
とその語調まで真似しちゃう子がいる。自閉症の傾向がある子。
彼女の頭の中には、「なにしてるの!!」の声が、何回も再生されて、しばらくくっついたまま、取れないらしい。
何度も、
「なにしてるの!」
とループし、それを強く声に出している。
知らない人が見たら、まったく大人を小馬鹿にした態度に見えるだろう。でも、これは、障害の特性なんだから、それを知ってさえいれば、反省するのは子どもではなく、大人の方だ、となる。
落ち着かないのは、大人が落ち着かないせいもあるわけだ。
怒鳴っていると、子どもも怒鳴り始める・・・。
ふしぎだねえ〜。
こういう話をしても尚、保護者の懇談会では、
「でも先生!うちの子は、叱らないとなめられるから!」
という親御さんが多い。
私は、ふだんは冗談ばかり言うが、このときばかりは
「いや、叱るんでなく、ゆっくり落ち着いて、教え直してあげてください」
とお願いする。
「穏やかに、指摘する、くらいでいいです。それでも分かっていないようでしたら、やっぱりちゃんと分かっていないのです。もう一度、めんどうですが、きちんと分かるように教えてあげるのです。そして、その通りにやろうとしたら、ニコッとうれしそうにしてあげるだけでいいです」
保護者の方は、
「えー、そんなこといったって・・・」
という顔をしている。
まあ、それもそうで、仕方がないのかも。
だって、教育現場である小学校のベテランの先生から、
「○○ちゃんは、先生に叱ってほしいのよ」
とか、
「叱ることで、先生の真剣さがはじめて伝わる」
だの、
「ダメなものはダメ、と言わないと!」
という感じで、やはり頑迷な、「叱るのはよいこと」という思い込みが伝わってくることが多いからだ。相当根深い、つよい、思いこみなのだろう。これを、剥がしとるのは、容易なことではない。(ちなみに、ここらあたりで言っている「叱る」は、ほとんど「怒る」と同義である。そのニュアンスに注目。中学年くらいだと、悪いことを実験的にしてみよう、なんていう態度の子もいるから、それははっきりと、善悪を教える、悪いことは悪い、やってはいけないことはやってはいけない、と強くハッキリと教える必要があるかと)
まー、こんな調子なのも、仕方がないヨ。
だって、県の教育委員会のつくる資料にも、
「効果的に叱る」
なんて、言葉があるくらいだからナァー。
(これを、穏やかに指摘、あるいは教え直す、と思う人は皆無だと思うナ。厳しく怒鳴りつける、と思う人がほとんどだろう)
これをいいことに、「叱る」=いいこと、と思いこむ人が減らないわけだ。
ネット上にも、「体罰復活!」なんていう勇ましい意見が掲示板に書かれてもいるようだ。現場の苦しさが、もうMAXになってしまっているから、大人も保護者も教員も、悲鳴をあげている状況なのかも。とくに、保護者の苦しみは、教員をやっているとよくわかる。もう、子育てがどうしたらいいか、親としてどうふるまえばいいのか、混乱して分からなくなってしまっている。教員も、そうだ。
そうまで思い詰めるほどまで、子どもを律しきれないのだ。
本来はそうでないはずの特別支援級に、発達障害の児童が押し掛けてくる状況や、その児童に対応する教師の数が絶対的に足りないことや、学校の仕組みがそうなっていないこと、いろいろなひずみが、きしんで、ぶつかりあって、学校中が悲鳴をあげている。
わたしも、これまで学年主任をしたこともなかったし、見よう見まねでやってきただけだったから、「叱る」もきっと必要なんだろうな、と思ってやってきた。しかし、この1年間が、
「叱らずに(怒らず)すんでしまった」
ので、おそらくこれがターニングポイントになり、
本当は「叱らない(怒らない)」でやっていけるのだ、
と思って、これからやっていくことになりそうだ。