[]叱らず、子どもと闘わず・・・
「叱る」と「ほめる」について、何年も考え続けている。
そのことが、ブログにかいているとよくわかる。
ブログは日記だ。
人に読んでもらうというよりも、自分の備忘録という意味合いが強い。
すると、何年も前にも、
「叱る」と「ほめる」 について考えている。
という記事が出てくる。
同じようなことを、何度も考えるのが教師という仕事らしい。
さて、頭の中で何年も寝かしつつ、考えが渦巻いているのだが、はたしてこの春、ボーっと遠くの山を見ていたときに、ふとこんなことを考えた。
それは、昨年度担任した、反抗挑戦性障害児のS子のことを考えていた時だった。
S子が離席するのをなんとか座らせ、黙らせ、クラスの他の子どもたちと共に過ごさせるのに、10分も15分もかけていたことがあった。
そのときのS子は、いつも、
「なんでそんなことしないかんのだ!やだね!!」
という。
つまり、なにも納得していない、ということ。
教室で勉強する、ということについても、つまりは納得していない。いや、なのだ。なんで座らないかんのか、なんで勉強しなくてはいかんのか。
それを、
「教室は勉強をするところです。座りなさい!」
とやっていた。
大声で怒鳴ったことも何度もある。正直、怒鳴らない授業をしたかったが、<怒鳴る>をしてしまったこともある。
そんなことをつらつら思い返していたときに、ふと、
「同じ土俵で戦わない方法がないかな」
と思った。
これまでは、教育は格闘技だ!と思っていたし、なんとか抑えつけなければならない、と感じていた部分もある。
だが、結局、同じテンションで戦っていて、何も得るものはなかった。
S子以外の子や、他の学年の子にも
「先生はこわい」
と思われたが、それは、得られた、というポジティブなものではない。
「S子さん、席に着きなさい。だまって前を向きなさい。ほら、話をしない!勝手なおしゃべりは休み時間にすることです。今は授業時間です!身体ごと、前を向きなさい!」
これを続けるのは、本当にしんどい。
朝からほめてほめて、気持ちよくさせていたって、いざというときに指示が通らない・・・。
そこで、S子がどうしたいか。それをもっと聞いていくしかないのでは、と思った。
「S子さん、授業の約束、教室の約束がありましたね。今、2回注意をしました。3回目になると、教室を出て、職員室へ行くのでしたね。さあ、約束を守れますか?」
つまり、S子が、自分の進路を選択するのである。
S子の意識、注意の向ける場所が変わる。
先生が叱る、言うことを聞く、ということではなく、自分が約束を守るかどうか、ということに、気持ちが向いていく。
そうなるように仕向けていくしかないのでは。